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西加奈子『さくら』。

それはふわふわとしたものに包まれていて、なかなか辿り着けなかった。

中学生か高校生のころ、私が買ってきた江國香織『こうばしい日々』を読んだ父が、「ああいうのは、あかん」と言った。
「特に何も起こらない。ああいう、ただだらだら書くようなものが日本の小説には多すぎる」と。
思春期の私にその言葉は結構大きな影響を与えた。今でも小説を読みながら、これは「何も起こらない」小説だな、と自分のうちで分類する。ただし、父にそう言われても『こうばしい日々』は好きだったし、「何も起こらない」小説にもおもしろいものとそうでないものがある、とは思う。「何も起こらない」ことに必然性があるような気がしたら、「何も起こらない」ことに意味があるような気がしたら、おもしろいのではないかと思う。もしくは、何も起こらなくてもその表現がとてつもなく素晴らしいか。最後の条件は夏目漱石『永日小品』のために付け加えたものだ。この作品はひどく意味ありげだけれど、本当に意味を考えて漱石が書いたのか、どうも疑わしい気がする。こんなことは文学研究を生業としていないから軽々しく言ってしまうのだが。意味を考えてもさっぱりわからない私が、それを諦める口実としてそんなことを思ってしまうのかもしれない。
(この後少しねたばれあり)




「何も起こらない」小説は今読んでいる川上弘美『ハヅキさんのこと』なんかにも当てはまるのではないかと思う。しかし今書こうとしている『さくら』はそうではない。前置きが長くなってしまったが、『さくら』は「何かが起こる」小説だった。

ただ、「何かが起こる」のは小説のかなり後になってからだ。「父が帰ってくる」という点にひっかかるものの、描かれている場面は父が帰ってきた後の、一般的とも言える家庭の姿だ。兄のことについても、第二章の最初にちらりと示唆されるだけである。それから第2・3・4章の間、「何も起こらない」、と思いながら読んでいた。本当は、後の展開につながる示唆も含まれているのだが、その示唆だけでそれがわかるほどの推察力は私にない。
第5章で「何かが起こる」。そこで「起こった」こと、つまりその展開はおもしろいと思った。私は、好きだ。
だけどどうもそれが強く響いてこない。第2・3・4章のふわふわとして温かい感じの向こうから音を発しているような感じだ。音がくぐもって、よく聞こえない。「何かが起こる」前の、温かい感じが強くて、その重大さや深さを感じきることがなかなかできないのだ。
それとも意図的に、それを重大に感じさせないように、はっきり響かないようにしているのだろうか。

もう一つこの小説で印象に残ったのは、身体的な触れ合いを「喜び」として、とても肯定的にとらえていたことだ。
男女二人の間だけの共有事項ではなく、家族、多くの人の前でその考えを話し、場にいる人が共感するという点などで、『失楽園』とも違う。私はどうしても身体論やなんかにふって難しく考えてしまうけれど、そういう捉え方・表現の仕方もあるのだと、目をひらかされた思いだった。
by hyuri07 | 2007-09-08 23:35 | 文学


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