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島本理生『ナラタージュ』。

 最後まで読みきらせるのが凄い。

 たとえば大学の学食での場面、「後ろを人が通るので椅子を引いた」というような文章があった。
 それに心を泡だたされてしまった。学食ではよくある場面だ。それを盛り込むことで、小説の世界をリアルなものにしようとしているのかもしれない。
 でも私にとってそのリアルは、生温い、気持ち悪いもののようだ。確かによくあることだ。でも、この場面でそのこと自体はどういう意味を持っているのか。「昼ごはんに素麺をゆでて食べる」というような文章にも似たものを感じた。なぜ、リアルを求めるのか。
 一方では「リアル」な描写をしようとしながら、一方では二週間後の演劇部の練習が一行あけた後にあっさりと続いている。「バイト以外は暇」ということが繰り返し出てきながら、バイトの場面は出てこない。大学での場面も少ない。「昼食をすませてから高校へ向かった」とか、「大学の友達とご飯を食べて帰宅した」とかもそうだ。誰かに事務的に報告をしているような書きぶりだ。そこでの「昼食」や、友達がどんな人でどんなものを食べてどんな会だったのかということが、これを読んだだけではさっぱり伝わってこない。

(以下ねたばれあり)



 多分、彼女の方針は徹底しているのだろう。重要なところは細かく書く。重要でないところはおおざっぱにしか書かない。小野君との場面では詳しい描写もなく一行空いた後に事は済んでしまっているのに対して、葉山先生との場面では長く、丁寧な描写がされている。
 それがいいところもある。でも、彼女が重要だと考えることのなかには、私が重要でないと考えることがある。その逆もある。それが、私の感じるリアルの生温さにつながっているのだろう。

 彼女の身体感覚は至極真っ当だと思う。つながらない心をつながった気にさせるような感覚。妊娠したら困ると考える感覚。つながっていなくとも、刻んでほしいという感覚。多くの人が日常で感じているものを捉えて、文章化しているような感じがある。もっと新しい身体感覚を提示してくれることを少し期待してみたりもする。

 そんなふうに不満は多いのに、不満を覚えながらも、最後まで読んでしまうのだ。それだけ、物語の構成に力と魅力があるのだと思う。そんな作家さんはなかなかいないような気がする。葉山先生とのめぐりゆく関係も、最後まで興味深く読んだ。

 ほかの作品も読んでしまうかもしれない。
by hyuri07 | 2007-11-04 21:44 | 文学


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