今日職場で回覧されていたメンタルヘルス講座の資料には、10か条の一つに「愚痴を言える人を確保すること」と書いてあった。
自分が愚痴を言える人を確保するということは、自分もまた人の愚痴を聞くということだ。
ますますメンタルヘルスを害さないだろうか、と一瞬心配になった。
私が愚痴を言える人は、私の愚痴を聞いて、受け流してくれる人だ。
私が愚痴を聞ける人は、愚痴を聞き流せる人だ。
だから実は恋人の愚痴を聞くのなんかはなかなか高等技術を必要とする。
恋人だから、愚痴を聞いたら心配になってしまう。
でも愚痴を言って相手にあまりに心配をかけると、相手に気を遣わせてしまう。
自分の愚痴で相手が悩むようなことは望んでいない。つかず離れずの距離が難しい。
だからといって適当に聞いてくれればいいという訳でもない。
最後まで耳を傾けてほしい。
友達の言葉を借りれば、「理解しなくてもいいけど、否定しないでほしい」。
ただ受け止めてほしい。共感かねぎらいの言葉がほしい。
愚痴っていることをを否定されると、ショックが大きい。
どうしても共感できないなら、まずは受け止めて、そのあとやんわりとゆっくりと、否定でなく肯定の言葉を使って、意見を教えてほしい。
人の愚痴を聞くといらいらしてくるという人もいるだろう。そういう人に愚痴ってしまうとショックばかりが残る。そういう意味では、愚痴を言える人を確保するということは重要だろう。
だけどそうすると、愚痴を聞くことができる人は、愚痴を言う人を何人も抱えることになる。
聞く人自身にも限界がきてしまうのではないか。
技術がある人なら誰にでも愚痴れるというわけでもない。