カテゴリ:臨床哲学( 9 )

薔薇色か桃色。

 自分で自分を幸せにすることはできないのではないかとふと思った。
 周りに家族であれ、恋人であれ、友達であれ、職場の人や仕事で会う人であれ、誰かがいるから、幸せを感じられるのではないだろうかと思った。
 自分にできるのはただ、そういう周りの人たちが、自分に幸せを感じさせるようなことをしてくれるように、その人たちに何かをすることなのではないかと。
 たとえば、お店に来たお客さんに「ありがとう」と言ってもらって幸せを感じるためには、お客さんが「ありがとう」と言いたくなるようなサービスなどを自分がする、というようなことだ。
 間接的にはできても、直接幸せにすることはできないのではないか、と思ったのだ。
 そして「ありがとう」と言われるに足るサービスをしたとしても、お客さんが「ありがとう」と言ってくれるとは限らない。お客さんがほかのことに頭がいっぱいだったり、虫の居所が悪かったりするかもしれない。
 幸せになるための努力はみなできるが、それをしたからといって幸せになれるとは限らないのだ。
 だから、プロポーズされた人が「幸せにしてください」と相手に言うのは、当然ありえることなのではないかと思った。自分の力だけで幸せになることはできない。あなたを幸せにするから、その幸せを使って、自分のことを幸せにしてほしい。自分が幸せを感じられたら、その幸せを使って相手をまた幸せにできる。そうやってうまく循環させよう、ということなのだろう。「ありがとう」と(たとえいつもというわけでなくとも)いってくれる人、自分の働きかけにこたえてくれる人とでないと、その循環は成り立たないのだ。

以前カントの幸福論について少し書いたことがあったけれど、
カントはこういうことを言いたかったのかな。
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by hyuri07 | 2006-01-12 03:26 | 臨床哲学

予選。

今日の臨床哲学の授業では受講生の有志が撮ってきたインタビュー映像を見た。
犬に話しかけるというものがあった。
文学における動物の描き方を考えている私は興味をそそられた。
犬に話しかけているのに飼い主さんが答えているあたりをとりたかったらしい。
私は、犬に代わって返事をしているようだが、飼い主さんの言っていることと犬が思っていることが違うような気がして、ずっと気になっていた。
インタビューをした人もそのディスコミュニケーションは感じていたらしい。

授業の後半では皆がいろいろと意見を出していた。相変わらず、人と意見が違うときどうしていいかわからない私は、はらはらしながら聞いていた。険悪な雰囲気になることはなかったが、前に言われたこととつながりのないことを言う場面は何度もあった。そこだけ見るとディスコミュニケーションに見えるが、人々が皆言いたいことを言えているとも言えるかもしれない。この教室の空気そのものが、コミュニケーションとディスコミュニケーションの入れ替わる渦の中にあるのかもしれないと思った。
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by hyuri07 | 2005-12-10 02:57 | 臨床哲学

流暢。

「話が合うというのは実はディスコミュニケーションだ」という話を、臨床哲学の授業で聞いた。
それは、お互いの共通の部分だけについて話しているのだからと。
自分の思っていることと相手の思っていることがまるで同じになるはずはない。自分の思っていることを伝えれば、必ず相手と食い違う部分が出てくる。つまり、相手と意見が食い違うことが、自分の思うことをきちんと伝えられていると言うこと、つまり、コミュニケーションが取れているということだと。
なるほど。
意見が食い違うことは苦手だ。ぎすぎすする雰囲気も苦手だ。それなら自分の思うことは言いたくない。それが欲しいのならあげるよ。でもそれは確かにディスコミュニケーションなのかも。
・・・でもやはり、そんなにたくさんのものはいらない。私のほしいものすべてはいらない。少しの、本当にほしいものだけでいい。
・・・しかし実家に帰ると物欲が再燃する。普段はやはりお金を使い果たしたら生きていけないという意識がどこかで強く働いているのだろうか。
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by hyuri07 | 2005-12-05 10:17 | 臨床哲学

色聴。

今日の臨床哲学の授業は音に関する話だった。
ジョン・ケージのドキュメンタリー映像も見た。この人はかっこいい、と思った。
高校のときの音楽の先生が好きで、いくつか音を聞かせてもらって以来の出会い。
不調和なものもかっこいい。それはけっこう多くの人が共感できるのではないかと思う。
しかしこの人は、たくさんの不調和の中から、いちばんかっこいい不調和を一つ選び出して楽譜に書いているのだ。私なら、そんな風に選べない。
あと、ピッチよりリズムがが大切と言っているのも印象的だった。

少し前にタモリ倶楽部でもやっていたね。あの回、おもしろかったです。
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by hyuri07 | 2005-12-03 00:47 | 臨床哲学

胡麻。

当たり前だけれど前置きによってそのものの感じ方は全然違う。
だから、テレビでやる映画の解説やなんかというのはとても難しいのだろう。他に、美術展の最初の挨拶とか、パンフレットとかも。感想ではなく、その全体を概観して解説するような言葉、今から見るものにテーマを与えるような言葉。
一見ただの石に見えるものが、そのような前置きによってテーマを与えられると、化石に見えたり、芸術作品に見えたりする。
逆に言えば、「こう見てほしい」というものがあれば、そう見てもらえるような前置きをつければいい。
さらに言えば、前置きをした人がどんな人かによって信用の仕方も違うだろう。教授なのか、タレントなのか、など。
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by hyuri07 | 2005-12-02 02:40 | 臨床哲学

縮小。

ワークショップで、インタビューのビデオを撮った。
私の班は「嘘」というテーマでそれぞれ嘘をついた。
先生たちは感想で「人間は嘘をつくと饒舌になる」とおっしゃっていた。
「役を与えられるとしゃべりやすい」ということもおっしゃっていた。
なるほど。
私が個別指導塾でしゃべれるのも「講師」という役を与えられているからだろう、と思った。
嘘は嫌いじゃない。演技がうまくなりたい。と思う。
就職活動の面接体験記を読んでいて、自分を出せ、というものがあるが、
きっと、自分を出そうとしたらすらすらとはしゃべれないのではないか、と思った。
すらすらしゃべらないほうが、いいのだろうか。
それとも、自分に役を与えて、すらすらしゃべるべきなのだろうか。
きっと就職活動だけでなく、普段人と話すときにも同じようなことが言えるのだろう。
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by hyuri07 | 2005-11-20 14:41 | 臨床哲学

ネコ。

自分にとって当たり前のことは
他の人にとって当たり前ではない。
自分が当たり前に使っている言葉は
他の人にとってなじみのない言葉だ。
誤解を生むのは嫌だけれど
新鮮な驚きを提供できれば
うれしい。
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by hyuri07 | 2005-11-13 08:49 | 臨床哲学

熱と靄。

風景デザイナーの方の話を聞いて、すごい、と思った。
いろいろなことを考え出していた。
だめだ、私にはできない、と思ってしまった。私ならきっと、実現性を考えて、できそうなことしか話せないだろう。予想される反論を考えて、それに対処できるようになってからでないと言えないだろう。
もちろん反論に容易に答えられる頭の回転もあるだろう。でもそのデザイナーの方を見ていると、彼にあるのはそういう頭の回転よりもむしろ、新しいこと、おもしろいこと、かっこいいことを考え出す創造力なのではないかと思った。実現性を先に考えないで、まずはとらわれないで発想することができているようだった。無理そうに見えることを実現してしまいそうな行動力も感じられた。
実現性が問われたりいろいろな条件に縛られたりすることはわかっている。それでも、それらにとらわれないで発想する。
それができるのがデザイナーなんだろうか、と思った。
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by hyuri07 | 2005-11-01 02:43 | 臨床哲学

別に。

今回の臨床哲学の講義・演習のテーマは「イメージリテラシー」らしい。

前回は風景デザイナーの方、今回は現代音楽・映像の方の話を聞いた。この二人の方と倫理学の教授と三人で授業が進められるらしい。
その中で、都市の描かれ方が変わってきている、都市に異物を描くような表現がよくある、という話があった。
私は、それって都市に限られるのだろうか、と思った。田舎の風景に異物が入り込むようなアートは成立しないのだろうかと思った。意味は違うかもしれないけれど成立するような気がするのだけれど、どうだろう。
なぜ今の表現は都市に限られているのだろう。確かに、アートでプロを目指すような人は都市にいなければならないのかもしれない。
自分で取った田舎の風景の写真に落書きをしてみた。田舎の写真は、ほとんど人が映っていないものも多い。そして、自然も多い。自然の中によりは、人工のものが多いところのほうが、異物をかきいれやすいのかもしれない。都市の写真に映るものは、人間以外ほとんど人工のものかもしれないと思った。だから、異物を描き込んでも異様にならずに、アートになるのかもしれない。
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by hyuri07 | 2005-10-29 14:53 | 臨床哲学