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王様の杖。

宮沢賢治の作品が大きく高く評価されるようになったのは、彼が亡くなってからだ。
ゴッホもそう。
ずっと、その作品で、食べられるだけのお金をかせいではいなかった。
評価されなくても、死ぬまで、続けられるだろうか。
周りの人に、たくさん、負担をかけて。
それでも、自分の可能性を、信じて。
まあ、賢治には書いて食べていこうという気持ちは薄そうだけれど、それでもずっと、書くことをやめなかった。
でももしかしたら天才は、負担をかけても自分の道を全うするべきなのだと、刻み込まれたようにわかっているのかもしれない。
たとえば私に、自分の道があって、その道でなかなか評価されなかったら、その道を続けられるだろうか。
・・・そんなに自分のことを信じられないだろうな。
だけど、何か、おぼろげにでも絞って頑張らないと、道はどこにもないだろう。
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by hyuri07 | 2004-11-30 00:55 | 文学

電車で。

今日は京都へ行った。
紅葉を見るのが目的だったが、入場料の必要な寺にはほとんど行かなかった。
ただ、柵の外から、のぞかせていただいた。追い払わないでくださって、ありがたかった。
天龍寺をのぞいていたとき。柵の向こうに道が続いていて、両側に紅く染まった木があった。
と、不意に、向こうから道の真ん中を黒猫が歩いていた。
うわぁ。
黒猫は身を揺らしながら、堂々と真ん中を歩いて、ふっと横にそれて見えなくなった。

…絵になる光景だった。
写真で見るのじゃなく、出かけるのって、こういうことかと思った。
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by hyuri07 | 2004-11-29 01:06 | 日常生活。

シャワー。

昨日の夜中、眠れずにラジオをつけたら、fm802で、「ROCK ON」がやっていた。
伊藤政則さんがDJの、ハードロックががんがん流れる番組。
地元にいたときは、月一回伊藤さん(心の中では、まささんと呼んでいます)の番組が流れていて、楽しみにしていた。
毎月のように聞いていても、流れる曲の半分は、アーティスト名もわからず、聞いたこともなかった。お金のない高校生の私にとって、音楽と出会うのはいつもラジオを通してだった。しかしそれらの曲は、他のラジオ番組で流れるのをほとんど聞かなかったのだ。それなのに、はがきが読まれるのを聞いていると、そのアーティストの方々それぞれにファンがいて、またハードロックが大好きな人々が確かにたくさんいるということがわかった。その驚きはちょっとしたものだった。
わからないながらに聞き始められたのは、知っているアーティストの曲(BON JOVIとか、MR.BIGとか)も流れたからだ。彼らを好きだということから、あぁ、私はハードロック好きなんだなぁと思った。そして確かに、どんなに激しい曲が流れても、違和感なく聞けた。
昨日も、久しぶりにまささんの番組が聴けてうれしかった。少しボリュームを下げて、聞きながら本を読んで、ぼーっとしていたら、眠れた。
そして、今日になって、改めて思った。私にとって、ハードロックとかへヴィメタルとかは、癒しの音楽やなぁと。

少し前、「癒し」がブームになったとき、ヒーリングミュージックとして、主に穏やかな音楽が紹介されていた。それを見ながら、癒しの音楽なんて人それぞれのはず、と思っていた。
なぜHR/HMで私は癒されるのか、考えてみた。激しい音楽は大音量で聴くイメージがあるけれど、私はそれはしない。普通か、昨日のように寝る前なら小さめの音で聞く。HR系のバンドさんのライブを見るときも、前のほうで首を振っている人を眺めながら、後ろのほうに座って、ほーと聞いている。
たぶん、HR/HMには、あれだけ激しい演奏をしているから、演奏している人の存在感がしっかりとあるのだと思う。人の痕跡が、大きく残っているのだと思う。だからHR/HMを聞いていると、人に包まれた気分になるのだ。たとえ演奏している人を知らなくても。
誰かが演奏している、頑張っているのを感じると、彼らとは違う自分を確かに感じられる。激しいと、頑張っているのがはっきりわかる。今頑張るのは彼らで、私が頑張る番じゃない。私は休める。
そんな心理が働いているのかもしれない。

真のファンの方には、考えられないことなのかもしれない。ごめんなさい。
どうですか??
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by hyuri07 | 2004-11-28 01:19 | 音楽

ぜよ。

今日も、「モード論」。
今日は、三宅一生さんと川久保玲さんのお仕事についてだった。
お二人の作る服からは、身体をどう考えるかということが見てとれる、ということ。
そこから身体の話になったのだけれど、そのとき、身体が意識していないのは、それがうまく働いていないときだ、という話になった。
だから文学でも、身体の感覚が描かれるのは、病気、倒錯の場合だと。
・・・?
比較文学の授業で、もう三年も身体と文学をテーマにした話を聞いていたから、私にも、他の例が上げられる。
「うまく働いていないとき」というのは共通するけれど、たとえば、老いを感じたとき、切除されたとき、または切除したように、一部だけを見るとき。
それから、自分とは違う身体を見たとき(人種の問題とか)、あとsexalityを感じたとき、とか。このあたりは、うまく働いていないときとは違う。
もちろん、先生は意図的に例を選んだのかもしれないけれど。
「モード論」も、比較文学の授業も、おもしろくて、似たテーマを扱っているのに、教授同士がその乗り合いについて話すことは、なかなかない。自分で考えるしかないけれど、やっぱりプロの考えには及ばない気がする。一部では、ジャンルを超えた試みが始まっているけれど、ぜひぜひ、もっともっと広がってほしいなぁ。
でも、私のしている体験の組み合わせは私しかしていないのだし、最後には、自分でテーマを組み合わせて考えるしかないのだろうなとは、思う。
きっとそれは、楽しいことのはず。
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by hyuri07 | 2004-11-27 00:46 | モード論

ふわふわ。

John Lennonは「Imagine」の中で、宗教もなかったらな、と歌っている。
昨日書いた鳥越さんの記事でも、宗教が問題になっている。

私の実家はある宗教のある派を信じている、ということになっている。お墓もその方式で作ってある。
私自身はその教えを聞いたことがない。どういう宗教のどういう派なのかよくわからない。
だけど、私がその信者ではないのかと言われると、そうとも言えない気分だ。
実家の先祖をたどって調べると、どうも戦国時代あたりから、その派を信じていたらしい。(祖父が好きで調べたのだ。)団結して一揆なんかもしたらしい。そういう話を聞くと、なんだかその何百年の重みが私の上にのっかってきて、簡単に「無信教」とも言えないのだ。
もちろん、お墓参りやなんかで、その宗の慣習にずっと触れてきたこと、それを信じているらしい祖父を見てきたせいもあるとは思う。

たぶん、宗教って、始めは皆そんな感じなのではないかと思う。
いろいろな宗教の教えを知って、これを信じたいと選ぶ人もいるとは思うけれど、ある程度の年齢にならないと、そこまで考えられないと思う。
多くの人は、生まれた、または育った地域や家庭で信じられているものを、子どものころから、選ぶことなく信じているのではないかと思う。
もしかして、違う環境に生まれていたら、違う宗教を信じていたかもしれない。
それくらいの違いなのに、宗教の違いで、今まで何度も何度も戦争が起こっている。

Johnの言葉、最初は、ちょっと違うんじゃ、と思った。
でも今はなんとなく納得できる。
信じたい宗教があることは、尊重すべきことだ。
でもそのために争いが起こるくらいなら・・・。
宗教のために境を作らないでほしいと思う。
皆が、底に同じ心を持っていることに、気付いてほしい。
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by hyuri07 | 2004-11-26 02:09 | そのほか。

よいしょ。

今日の三限は、先週、教授がポーランドに行っていて休講になっていた授業だった。
ドイツ文学の授業で、もちろん教授は遊びに行ったのではなく、シンポジウムのようなものに出席されていたのです。
教授がポーランドの印象を少しだけ話してくださったのを聞いていて、うわぁ、楽しそうだなぁ、と思った。
ヨーロッパにありながら東方の雰囲気を感じたそうで、イスラム建築の写真を見るのが大好きな私はそれだけで魅力的だったのですが、それを話す教授も、とても楽しそうで。
そういえば最近の私は、小さい世界にとどまりすぎだ・・・と思った。このblogを見ても、自分の手の届く範囲のことしか、書いていない。
世界が小さくても、その中ですごくおもしろいことが書ければ、おもしろく読んでもらえるかもしれない。でも、私が目指すものは、それだけではないはず。

11月15日の、鳥越俊太郎さんの記事(http://www.1101.com/torigoe/2004-11-15.html)を見て、うゎ、と、うなってしまいました。
新聞記事を読んだだけではわからない。でもそこに、歴史的な事実の視点、宗教の視点を加えると、新しく見えてくるものがある。
私もそんな文章を書きたい。「こんなふうにも見られるよ」って、新しい見方を提示したい。そうして、読む人の世界を広げる文章を書きたい。
大学でやっている比較文学も、それをしたくて、磨きたくて、選んだはずなのだ。
それなのに、私の最近の世界は、どんどん狭くなっていたかもしれない。
周りには、限られた世界の中でどんどんおもしろいことをする人もけっこう多いから、影響を受けすぎていたのかもしれない。

もちろん、今は、集中してやりたいことがある。多くのことに手を広げるところまでいかないかもしれない。小さな世界で、一つずつ作り上げることも、大切だと思う。
だけど、視野だけは、広く持つことを忘れたくない。たとえ小さな世界にいても、それが小さな世界だということをときどき思い出したい。
顔を上げて、360度見まわして、いろんなところから見てみたいな。
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by hyuri07 | 2004-11-25 00:24 | そのほか。

じりんじりん。

 着信メロディで人気のある曲は、さびがアウフタクトで始まるのではないか、とふと思った。

 大塚愛の「さくらんぼ」が、着メロでとても人気があったということを聞いた。そのとき、この曲は着メロとしてよく合いそうだなあ、と思った。それがなぜかと考えたとき、アウフタクトから始まるからなのではないかと思った。
 アウフタクトとは、「楽曲が強拍以外の拍、つまり弱拍から始まる場合に、最初の小節線の前に現れる冒頭の一個あるいは数個の音のこと。上拍。アウフタクトでの開始を弱起という。」(「大辞林」三省堂) ちょっとわかりにくいですが、たとえば「さくらんぼ」でいえば、さびの最初の「あいしあ」という部分がアウフタクトで、「う~」と言うところからさびの小節が始まる。楽曲を小節に区切り、さび部分の小節を抜き出したとき、そこから前にはみ出している部分、と言ったらいいだろうか。
 着メロはその名の通り、着信を知らせるものだ。出だしが重要なのではないかと思う。アウフタクトで始まると、携帯電話が鳴ったときに、はっと気付きやすいのではないだろうか。だから、人気を集めるのではないだろうか。

 今週の着メロ人気ランキングを見ると、1位から10位までの曲のうち、アウフタクトで始まる曲が6曲ある。私が注目したのは、4位のゴスペラーズ「ミモザ」、10位の大塚愛「大好きだよ。」の二曲だ。
 同じく今週のオリコンウィークリーチャートでは、「ミモザ」は12位、「大好きだよ。」は16位である。この二曲が、着メロとしてより人気を集めていることがわかると思う。そしてこの二曲ともに、さびはアウフタクトで始まっている。
 特に「ミモザ」は、テンポが割とゆっくりなのにも関わらず、人気を集めている。同じくテンポのゆっくりなポルノグラフィティの「黄昏ロマンス」は、オリコンでは3位なのにも関わらず、ここでは7位にとどまっている。それだけ「ミモザ」が人気なのは、アウフタクトから始まるさびによるところもあるのではないかと思えてならない。
 大塚愛は、今までのシングル6曲のうち4曲のさびが、アウフタクトから始まっている。
彼女の魅力の一つはキャッチーなメロディーだと言われている。着メロに合うようにというわけではないだろう。しかし、人の心をつかむメロディーを作るのに、さびをアウフタクトで始めてみるのも結構効果的、とわかって作っているのではないかという気もする。試行錯誤の過程で、アウフタクトで始めてみようか、みたいな感じがあるのではないかなぁ。

 もちろん、アウフタクトから始まるのではない曲もたくさんある。しかしそれも、さびの小節の頭、一拍目から入っているものがほとんどだと気付いた。
 着メロランキングでもオリコンランキングでもそうだ。今日の昼あたりから、何十曲も思いつくまま考えたが、小節の頭から入っていない曲は三曲しか思いつかなかった。(The Beatles「All you need is love」「I want to hold your hand」、Chicago「Hard to say I'm sorry」)
 しかし自分のことを考えてみると、サックスでソロを吹くとき、一拍目をあけていることがほとんどだった。なんだかもったいなかったなぁ、と思う。アウフタクト、せめて一拍目の頭から入っていたら、それだけで聞く人に少しはインパクトを与えられたと思う。一拍目から入れなかったのは、がんと入るときに失敗したらどうしよう、と怖がっていたからではないかと思う。
 これから曲を作ったりする人、行き詰ったときには、そんなところを考えてみると、光が見えることもあるんじゃないのかなぁ。
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by hyuri07 | 2004-11-24 02:12 | 音楽

悲しくても。

サッカー日本代表に呼ばれる選手たちには皆、「ここがいい!」って思えるところがあるのではないかと思った。
私はそれほどサッカーに詳しいわけではないけれど、解説を聞いてみると、相手に取られないドリブルをする、キラーパスをよく出す、パスの精度が高い、運動量が豊富、とか、それぞれあるようだ。
日本代表じゃなくても、アマチュアの選手でも、得意なところがあるサッカー選手は多いのではないだろうか。自分ではわからなくても、指導者がいいところを見つけて、本人に話したり、それを伸ばすような練習をさせたりすることもできる。
サッカー選手はその人らしさが見えやすいのだろうか。ポジションや役割はあるけれど、ピッチに立ったら、どう動くかについては自分で決める幅が大きいと思う。どちらに走るか、誰にパスするか。もちろん練習はすると思うけれど、状況はいつも違う。らしさが見えやすいのは、そのせいだろうか。
その点で、野球は違うところがあると思う。守備位置では、打者をアウトにする動きが必要だ。今はどこに投げるべきかという選択肢は限られている。ピッチャーなら、どんな球を投げるかという違いが見えやすいけれど、他のポジションでそれを見るのは、素人にはけっこう大変だ。バッターボックスに立ったときも、打つことが目標だ。ヒットが多い、ホームランが多い、という以上の違いは、素人にはなかなかわからない。でもやっぱり、見る人が見れば、その人のいいところがわかるのだろうなぁ。

いや、ただ、サッカー番組を見てて、
「この選手はここがいいですね」なんて言われているのを見て、うらやましくなってしまったのだ。
売りを持っているということが。それを他の人にはっきり認めてもらえるということが。
自分の売りになるところって、ない気がする。
たとえ何かいいと言われても、自分ではそうは思えないし、
その場面でそれがよかったとしても、その場面限りのような気がして、この先生きていく上で役に立たない気がして。
何もない、と、言うのは楽だ。何か失敗したとき、だから何もないって言ったじゃないですか、と、言い訳できる。何かできる、と言うことは、その部分に責任を負うということだ。
私は責任を負うことが怖いのかもしれない。
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by hyuri07 | 2004-11-22 23:50 | そのほか。

成り立たせたい。

今日も、「モード論」から、いってみる。
前々回の授業で、流行(モード)についての話があった。自動車、音楽、思想など、モードの波をかぶらないものはほとんどないと。
そこでふと、音楽の流行ってなんだろう、と思った。

あちこちで、ヒットチャートが発表される。でも、音楽の流行って、それとはちょっと違う気がする。
流行の影響を受けやすいのは、アイドルの歌う曲なのではないかと思う。少し前に、ジャニーズ事務所所属のグループの嵐が、スケボーキングの人が作った「a day in our life」という曲を出した。初めて聞いたとき、あ、嵐がヒップホップ系の曲も歌うんや、と驚いた記憶がある。ヒップホップがかっこいい、という前提がないと、アイドルにそれを歌わせることはないのではないかと思う。そしてその前提を作るのが、音楽の流行なのではないかと思う。

また続きを、書けるときに。
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by hyuri07 | 2004-11-22 02:07 | モード論

跳んでけ。

 今月一日にバンドのボーカルの方の服のことを考えていたけれど、「モード論」の授業をうけて、授業とつながるところがありそうな気がしてきた。
 一つは、衣服の社会性の問題。バンドの人々は、カジュアルな服を着ることで、バンドマンになる、ということかなあ。私自身、バンドの練習やライブのとき、きれいめの服は意識して避けるようになった。スカートもはかなかった。それは、バンドマンになるという覚悟の表れだったのかもしれない。バンドマンになれば、もっといいライブを目指して、練習ほかいろいろなものが求められる。普段の服装でその輪の中に入っていたら、私は無意識のうちに学生気分を引きずり、求められるものを出すよう努力することを怠るようになっていたかもしれない。
 しかし、もともとなぜきれいめの服を避けようと思ったかといえば、輪の中に溶け込みたい、浮きたくないと思ったからだ。それは授業で扱われた、衣服が輪の中へ入るパス、というような話とつながると思う。バンドの皆になじむ、同じレベルで、音楽の話もばか話もするためには、同じような服装をしていたほうがいい、と私は考えたのではないか。けっこう多くの人が似たように考えることがあるのではないかと思う。
 授業では、「同じような服を着る中で、わずかな差異に自分をかける」という話もあった。それも確かにうなずける。ただ、バンドマンの場合、音楽で自分の個性は十分に出せる。そういう安心感があるから、服が多少似通っていても、そこまで気にしなくてもすむのかもしれない。服に、そこまで自分をかけなくてもいいのかもしれない。
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by hyuri07 | 2004-11-21 01:15 | モード論