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影を。

今日、倫理学の授業で「ビュリダンのロバ」という話を聞いた。
あるロバから同じ距離にある二箇所に、同じ量の、同じ干草が置いてある。
ロバは翌日飢えて死んでいた。
ロバにはどちらかを選ぶ理由がなかったのだという。
このような考え方が発展してライプニツの充足理由率、存在するものには理由があるという考え方ができ、さらにこの考え方は他の人によっても発展したそうだ。

夜、奥山貴宏さんの小説『ヴァニシングポイント』を本屋で読む。
自伝的な作品である。
その中に、主人公が、自分が肺がんにかかった理由をいろいろと考察する部分があった。
聞いたことのある話だ、と少し考えて、ロバの話を思い出す。
医師は、理由はわからないと言ったという。
しかしそれでも主人公は考察する。そうでないと落ち着かない、などと言って。
ライプニツの考え方をひっくり返せば、理由のないものは存在しない。
肺がんになった理由は、わからない。はっきりしたものは、ない。
ライプニツの考え方によれば、存在しないと言えるかもしれないもの。
でも、現にある。そしてそれが余命を縮めている。
それって確かに、落ち着かないし、理由を考えたくなるだろう、と思った。

弱音を、文章の中で洩らさなかった奥山さんの、ブログでの最後の言葉。
いろいろと研究したら、けっこうなものになるのではないかと思う。
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by hyuri07 | 2005-05-31 02:07 | 文学

F1ヨーロッパGPをテレビで見た観戦記。

うぅわぁ…。
ちょっと泣けた。F1でそんなのってかなり久しぶり。ライコネンのタイヤが車から離れて転がり、ライコネンのマシンもまた回るのを見た瞬間。
あと一周だったのだ。
それまで耐えてもちこたえてきたのだ。タイヤを気遣ってブレーキも甘くしかかけられない中。タイヤの振動が伝わってすごい揺れを感じる中。最後の十周は彼に、がんばれ、と叫び続けた。がんばれ。あと少し。
ラスト七周で、7秒8ほどの差があった。二位のアロンソとのラップタイムの差が一秒くらいで、本当にどうなるかわからなかった。はらはらと見続けた。ファイナルラップに入って、差は1秒58。このままならなんとかいけそうだ、と思った瞬間だった。
車がフェンスに当たって泊まった後、彼はハンドルを車に付け直していた。その冷静な行動に、怒りを派手に表さず去っていく後姿に、視界がかすんだ。
リプレイを見たら、車がコースアウトしていくとき、彼はすごい勢いでがくんがくんと揺さぶられていた。スタジオに戻ったとき、永井さんが「大事に至らなくてよかったです」と言うのを聞いて、はっとした。解説の方も、そうなりかねない事故だったと言った。幾重ものショックを受けていた私には、その考えの回路が抜け落ちていた。本当に、ちゃんと歩ける程度で済んでよかった。
そしてそのような回路は、どうやら優勝したアロンソにも抜け落ちていたようだった。彼はインタビューで、ライコネンがバーストした瞬間どう思ったかと聞かれて、「破片を拾わないようにと思った。うまくくぐりぬけたとき、確実に優勝に近づいたと思った」というようなことを話していた。一瞬、自分を棚に上げて、彼にかなりの怒りを感じてしまった。他人の事故を喜ぶとは。もしライコネンが怪我をしていたら、顰蹙を買ってしまっていただろう。
でも、レース中にそんなふうに考えなかったから、勝てるのかもしれない。
インタビューは最初から最後まで流れたわけではないから、テレビで使われていない部分で一言、大怪我がなくてよかった、と言ってくれていると、信じる。
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by hyuri07 | 2005-05-30 02:05 | テレビ

ロケット。

以前、楽しい人生じゃなくていい、ということを書いた。
「人生は楽しむためにある」とか「幸せになるために生きるんでしょ」というような、周りの人や本に共感できなかったけれど、彼らに向かって、そうは思わない、とはっきり言うことはできなかった。このページで書くだけだった。(そこにコメントをもらえたのは本当にうれしかった。)
でも、おとといたまたまもぐった倫理学の授業で、新しいことを知った。
ヨーロッパには大きな二つの倫理学の流れがあり、その一つが、幸福が人間の最高の目的であると考える派閥である。
もう一つは、カントの考え方に代表される。幸福になるかどうかは、神のみぞ知ることで、自分では決められない。人間にできるのは、幸福であるに値する人間になることだというような考え方だ。
前者に含まれるのが価値倫理学・目的論的倫理学、後者に含まれるのが規範倫理学・義務論的倫理学である。
私の考え方は後者に近いのではないかと思った。「自分のことは自分で面倒みて責任とれればいい。親孝行して、人のために働いて、自分の倫理に反することをしないで暮らしていければいい。」というのが、私の考えた規範なのだろう。
「幸せになるために生きる」と言われても、それは一つの考え方であって絶対ではない。こういう考え方もあるのだと言えそうだと思った。そしてそう考える人は自分だけではないのだと。
後者の「規範倫理学」の中に、「人を手段にしてはいけない」という規範を立てる考え方がある。人の存在そのものが目的だと。ここにも、共感を覚える。私も気付かないうちにそう考えてきたのかもしれない。文学部で学ぶことも、なにかのためというだけじゃない、学ぶことそのものが楽しくて、目的だともいえるかもしれない。人生もそうだ。何かをするために、いつか幸せになるために、今は嫌なことを我慢してやる、というのは苦手だ。できるなら、していることそのものを目的にしたい。本当にしたいことをするためのことなら、嫌ではないだろう。
それはただ、嫌なことをやるのを避けているだけなのだろうか。
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by hyuri07 | 2005-05-30 01:15 | 文学

傾倒。

(昨日の続き)
改めて考えると、葵の上はファンができやすいかもしれない。ライバルになりそうなのは朧月夜くらいのような気もする。
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by hyuri07 | 2005-05-29 02:45

うねくった道。

まんが「あさきゆめみし」を読み始めて、止まらなくなった。
紫式部の「源氏物語」を漫画化したもの。
高校生、予備校生のころ、よく読んだなぁ。
おかげで、どうにか「源氏物語」だけは、古典の試験でどこが出ても、おぼろげに話の流れがわかるようになった。
登場人物はたくさん出てくるけれど、高校生のころからずっと好きなのが葵上だ。「あさきゆめみし」に影響された部分も大きいとは思うが、大学に入ってから原書を読む授業に出てもそう思った。光源氏をすばらしい人だと思いつつも素直になれない感じ。かなり好きだ。
源氏物語を現代の話にしたらどうなるだろう、と、大学に入って何かの授業を受けて思った。いろいろな女性と付き合う男性、親は金持ちで・・・などと。
でもそれを一部すでにやっていた人がいた。三島由紀夫。「近代能楽集」の中で、源氏物語をベースにした能の「葵上」をやっていた。読んで、なるほどと思った。
多分、すごい作品なのだと、思う。
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by hyuri07 | 2005-05-28 01:20 | 文学

すたーと。

できるだけ、いろいろなことを知って、視野を広く持ちたいと思っているけれど、
もしかしたら、いろいろなことを知ったら、下手したら、
見方は凡庸になっていくのかもしれない。
いろいろな見方を、その時々で際立たせることが必要なのかもしれない。
と、ある講義を聞いていて思った。
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by hyuri07 | 2005-05-27 10:16 | そのほか。

ん。

「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」を見た。
うぅ、おもしろい。
小学生から中学生にかけて「ごっつええ感じ」を見ていた私の世代にとって、ダウンタウンさんの番組によって、「なにがおもしろいか」という価値観が作られた部分があるのではないかと思った。構えなくても心にするするっと入ってきて、おもしろい。今回の「タネなしマジック」も、そのアイディアをこのメンバーでやったら、もうおもしろいこと間違いないと思える。間違いないとわかっていながらひいひい笑える。しかしその最初のアイディアを出すのはかなり難しいことだと思う。松本さんのアイディアだろうか。そうでないとしても、ダウンタウンさんの周りで腕を磨いてきた方のアイディアなのだろう。
実家では土日のお昼に見ていた。関西に来てからは放送していなくて、久しぶりに見たときには、やはりいい、と思ったことを前に書いた。
そしてどうもここにきて、よみうりテレビさんでも放映してくださるようになったらしい。四月から深夜番組の放映予定が変わったのだろうか。この間は「ジェネジャン!!」を初めて放映してくださって、やっと奥山貴宏さんを映像で見ることができた。奥山さんが生きていらっしゃる間に見たかった、とも思ったけれど、見られただけよかった。
そして、「がきつか」。ダウンタウンのお二人はもちろん関西出身だけれど、この番組には関西ローカルのものとは違うものを感じる。勝手に、懐かしさを感じる。

「心にするするっと」というのは、ペナルティさんのネタを見たときにも思ったなぁ。
ダウンタウンさんにも、前提となる知識を必要としない笑いがあるのかもしれない。
私が、成長する中で、前提を当たり前のものにしてしまったからかもしれないけれど。
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by hyuri07 | 2005-05-26 04:13 | そのほか。

感動の物語。

昨日から宝塚についてホームページをあちこち読んでいる。
ファンの方々には当たり前のようなことでも私は聞いたことのないことが多くて興味深い。ずぶりずぶりと、知らないことの波に分け入っていくのは楽しい。
しかし、ファンの方々のように熱狂的にはなれない自分も感じている。
その理由の一つが、「清く、正しく、美しく」ではないかと思う。
これは宝塚を作った小林一三の遺訓らしい。
美しく、というのは共感できる。心がけ次第で誰でもある程度は美しくなれるのではないかと思う。(何が美しさかという問題が残ってはいるけれど。)
「清く、正しく」というあたりに、共感しきれない。
もちろん、そういう世界があってもいいと思う。全然構わない。
ただ、世の中は清く正しくだけではやっていけない、ということも感じている。
私は特に、正しくないことばかりやっていると思う。ずるかったり、怠け者だったり、欲望が暴走したり、恋に溺れたり。
そして、人間の持つそういう部分のほうに、私はひかれるのだ。そういう部分を持つ人間が私は好きなのだ。
だから、清く正しくという世界で、ずっと生きていくことは耐えられなさそうだ。一瞬、その世界に浸るだけなら、いいけれど。
どこまでが清く正しくなのかというのも問題だ。清いってなんだろう?モーニング娘。にいた矢口さんは、恋愛が公になってグループを脱退したけれど、宝塚ではどうなんだろう。(これはファンの方なら前例をご存知かもしれない。)もやもやしたまま過ごすのも大変そうだ。
それでも、十年以上そこで活躍される方もたくさんいらっしゃるわけで。

でも、宝塚ファンの方々にも、「清く正しく美しく」以外のものを求めているのではないかと思える部分があると思う。その一つが、劇団の方々を呼ぶ「愛称」の存在だ。
「愛称」は、芸名の一部だったり、「ちゃん」などがついていたり、本名の一部だったりする。公式ホームページでも紹介されている。「清く正しく美しく」だけなら、本名で呼べばいい。「様」なんかをつけたらいい。でもそうじゃない。崩した名前で呼ぶことで、彼らにカジュアルなイメージも付与している。そういうイメージを付け加えたがっているのだ。
そう考えると、ファンの方々にも、共感することができる。
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by hyuri07 | 2005-05-25 01:50 | そのほか。

ふなみ。

宝塚歌劇を見に行ってきた。
きらきらしてとてもきれいだった。
深く知ろうと思えばいくらでも知ることができそうだ。
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by hyuri07 | 2005-05-24 09:54 | そのほか。

ぴりっつ。

「没後100年記念 フランスの至宝 エミール・ガレ展」を見に行ってきた。
彼の作っているのは、花瓶や水差しなどの器がほとんどだ。
しかし実際に花をいけたら、花が目立たなくなってしまうのではないかと思うようなものもあった。
一緒に行った母は、「それは芸術になっているのだから、実際に使うときのことを考えてはいけない」というようなことを言った。
しかし私はなかなかそうは思えなかった。「モード論」の授業を通して、服は誰かが着て初めて服として成立するなあということを感じた。花瓶でも似たようなことが言えるのではないかと思った。
また、展覧会の最後のほうで、彼の晩年の作品である、「手」というタイトルの彫刻が展示されていた。花瓶でも水差しでもなかった。晩年になって彫刻という手段を選ぶところに、何か意味があるのだろうとも思った。
しかし母を説得できるだけの考えは浮かばず、花瓶と服ではやはり違う部分も多いのだろうか、ということを一応の解決策として、その場では気持ちを切り替えた。
それでもまだ、もやもやは少しは残っている。

ただ、どっちにしろ、展覧会自体は、よかった。きれいだったし、それだけではないものも垣間見えた気がした。特に、陶器や、後期の作品が気に入った。それらが、花が生けられたり水を入れられてテーブルに置かれたりしているところを想像すると、ほかになくて斬新だけれど確かにかっこいいと思えるものがいくつもあった。その斬新さはなんだか天才というより仕方なかった。
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by hyuri07 | 2005-05-22 23:54 | モード論