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ジョン・レノン・ミュージアム1。

言葉で表現することはすごく尊いことだと思った。
ジョンのノートには魂がこもっていた。私はblogを書いているが、簡単に適当に言葉を使ってはいないだろうか、と思った。
その言葉で表現するというのは、他のどの言葉でもできないことなのであり、そのたった一つの言葉を、そのときの命をかけて探し、ひねり出す。ジョンもそれをしているということが、ノートから分かった。
私もそうしていたい。いちばんいい言葉を選びたい。命をかけて書きたい。
それが、言葉に魂を込めるということなのではないかと思う。
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by hyuri07 | 2006-07-31 10:56 | 音楽

闇夜。

電車から己の顔越し見る花火
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by hyuri07 | 2006-07-29 15:41 | 川柳・俳句・短歌

熱と恵み。

説明会で説明してくださった49歳の方に、ここに就職してよかったことは何ですかと聞くと、人生を振り返りながらしみじみ話してくださった。

仕事は人生なのだ。

こちらまでじんとして帰り道泣いた。
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by hyuri07 | 2006-07-27 23:22

Message from SkyMail

会いたいと言えずにメール七連続
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by hyuri07 | 2006-07-26 19:11

明日の神話。

明日はどこにあるの?
とまず、思った。

絶望ばかりが見えた。

(続く)
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by hyuri07 | 2006-07-26 10:07 | 文学

ハウルの動く城3。(ねたばれあり)

 ネットを見ていると、この作品について、「つまらない」とか「わからない」という感想も見かける。
 いろいろなページを見ていると、「わからない」から「つまらない」と感じたのだろう、と推測される。
 私は、わかった気がした。しかしなぜわかったかと考えると、最初に見たころに卒業論文で宮沢賢治を扱っていて研究書もいろいろと読んでいて、「修羅が明滅する」というあたりの解説をも読んでいたからなのではないかと思う。それを読んで、そのような概念を知っていなければ、わからなかったかもしれない。
 この映画は観客に、わりと多くを求めるのではないかと思う。何気ない場面の一つ一つが、これはこういう意味なのではないか、と考えさせる。前半は特にそうだし、昨日書いた帽子についてもそうだと思う。今回は思わずメモを取りながら見てしまった。このような象徴的な意味というのは、文学でよく出てくるものなどを知っていると少しはわかりやすいのだろう。そうでなくとも、ぴんと来る人はいると思う。しかしぴんと来ない人にとってみれば、何かを意味しているようだけれどなんなのかわからない、もどかしい気分が続くかもしれない。
 たとえばこのように象徴的な意味がたくさんあるということも、文学的な枠組みを使っていえば「意味の過剰」とか言えるかもしれないし、その言葉があてはめられれば、この映画を「未知なるもの」から、自分の知っている文脈のもとにあるものにすることができるのかもしれない。
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by hyuri07 | 2006-07-23 21:05 | 映画

ハウルの動く城2。(ねたばれ注意)




 ソフィーは90歳になったはずなのに、だんだん元気になっていって、しまいには18歳のときより元気であるように見える。それがわからないと妹がつぶやいていた。しかし私には合点がいくような気がする。18歳のソフィーは、「長女だから」という理由で帽子屋を継いでいた。そこに彼女の意志はなく、ただ一般的に「正しい」ことをしようとする頭の固い様子がうかがえた。しかし、「掃除婦になる」というのは、自分で決めたことだった。自分の道を自分で決めたことで、彼女は元気になっていったのだと思う。また、魔女に呪いをかけられたときに、ソフィーがかたくなに正論を主張していたことからも、柔軟になったソフィーの呪いが解けていくということは考えられるのではないかと思う。そう、この映画には、「「善」と「悪」」などのテーマとともに、現代の日本で話題となっている、「自分探し」というテーマも流れているのだと思う。
 そうやってソフィーが変わることを象徴していたのが、帽子の描き方だと思う。サリマンのもとを訪れるときのソフィーは、ハウルに「その帽子かぶるの、せっかく魔法で服をきれいにしたのに」と言われながらも、来るときにかぶってきた帽子をかぶっていく。しかしサリマン方ともみあううちに、帽子は飛んできた棒に貫かれ、ソフィーは帽子を置いたまま飛び去る。このとき、ソフィーは今までの、自分で決めなかった自分から脱しきったのではないかと思う。このあとの展開を見てみても、花畑で諦めの言葉をもらすなどを除けば、ソフィーはかなり頼もしかったのではないかと思う。
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by hyuri07 | 2006-07-22 23:08 | 映画

ハウルの動く城。(ねたばれ大有りなのでお気をつけ下さい)

 






 最初は雲や霧が映って、タイトルが出るのだが、そのとき、鐘の音が遠くに聞こえている。鐘の音というのは文学において、遠くから聞こえてくるということで空間の広がりを表したり、懐かしさを喚起したりするような音という役割を果たしている。

 最初に思ったのはこのことだが、今回一番思ったのは、「文明と自然との対立」ということだった。ソフィーの故郷の町では、目の前を汽車が走り、煙を出している。汽車というのは、たとえばソローの『ウォールデン』では、自然に侵入する文明の象徴のような役割を果たすと、レオ・マークス氏などは言っているのを思い出す。他にも、町には人がたくさんいて、建物が立ち並んでいる。
 これに対して、ソフィーは、ハウルの城の移動に伴って湖畔まで来たとき、美しい景色を目にして、ひどく感動している。私はこの場面を見て、汽車が走り文明が発達している場面と対比されているのではないかと感じた。町に生まれたソフィーが、町でなく自然に惹かれているということには意味があるような気がする。ハウルのソフィーへのプレゼントも美しい景色であった。このようなことから、文明と自然を二項対立的に見て、しかも自然のほうによさを見るような主張が、この映画にはあるような気がすると思った。この物語の戦争も、高機能な武器によってなされており、文明を表すものである。花畑に軍の飛行船が侵入する場面は、まさに先ほどあげた『ウォールデン』の場面を思い出させた。

 一方で、善と悪は二項対立的には描かれていなかったと思う。これは映画館で最初に見たときにも思ったことだ。そのとき引用した宮沢賢治の「修羅が明滅する」という言葉は、確かにこの物語を言い当てているようにも思う。以前気づかなかった点では、たとえばハウルとカルシファーが出会う場面で、悪魔のはずのカルシファーが、まばゆい光を放って美しく描かれていたという点なども、このことを象徴しているような気がする。
 戦争を、悪魔であるハウルが止めていた。悪魔でなければ止められなかったのかな、とも思う。そのとき、戦争は国家が進めている「善」だったのだから。以前書いたことなので今回は詳しくは触れないが、本当に奥の深い物語だと思う。
 その分、もしかしたら、結末を物足りなく思う人がいるのかもしれない。結局ハウルは戦争を止められなかった、何もできなかったと。しかしそれが真実のような気がする。一人では大きなことはできない。一般の国民にできるのは、「家族」を守ろうとすること、それくらいのような気がする。一人で大きく力を振るえるのはカブのような王子くらいで、他の人間がそれをするには、集まって大きな力を作るしかないのではないだろうか。その無力さをも、この物語は描いているのだと思う。だからこの映画は、100%ハッピーエンドというわけではなく、解決されていない問題を残している。しかし、それがサリマンの言うように「ハッピーエンド」として描かれているのは、結末が、「家族」のことに絞って描かれていたからだと思う。一人の力で戦争は止められなかった。でも、「家族」は、幸せにすることができるのだと。
 そして、一人一人が家族を幸せにしようとしたとき、やっと、「集まって大きな力を作る」ことができ、戦争をしようとする気持ちが国中で止まるのではないか。この映画はそういっているのではないかと思う。しかしそれは、ほとんど不可能と思われるくらいに難しいことなのだということも、この映画は示しているような気がする。
 
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by hyuri07 | 2006-07-22 15:52 | 映画

圧力。

話が通じないのはわかっても、どうしたら通じるのかわからない。
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by hyuri07 | 2006-07-21 20:54 | そのほか。

身近。

言ったのは男の子。大学二年らしい。バスで中学の同級生の女の子と久しぶりに会ったらしい。ギャルっぽい彼女は嫌という話から、女の子が「あたしギャルっぽい?」と聞くと、「微妙」と言って、この言葉。
「知らんやろうけど」と男の子。女の子は本当に知らないようだった。
その女の子も知る日が来るのだろうか?

ボーカルの名前はさこちゃん。
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by hyuri07 | 2006-07-19 18:29