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当初と結末。

じゃあ、素人の書いたドラマ評は役に立たないのか。自分の気持ちを日記風に整理して、その人を知っている人が読んで楽しむところで終わりなのか。自分のブログにかかわる問題だ。
できるなら、その先を目指したい。知らない人が読んでも、おもしろいと思ってもらいたい。共感したりはっとしたりしてほしい。「人がどう思おうといいではないか」の先をいけたら。私自身も他の方のブログをほとんど読まないのだから、困難な道だということはわかるけれど、目標は大きく。

評論家の方のドラマ評と素人のものとはどこが違うのか、そのうち検証できれば。
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by hyuri07 | 2006-10-31 01:17 | テレビ

「続き」。

しかし、ドラマ評のうち自分にあったものにたどりつくのは大変だ。ドラマ評は今やブログなどにあふれる。
できるだけ早く気に入るものにたどりつこうとするとき、参考になるのが「評論家」という肩書きなのだろうと思う。素人の方々よりは、頼りになるもののように思える。
(続く)
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by hyuri07 | 2006-10-30 12:36 | テレビ

さにゃく。

しかしそれだけなら、自分が見たドラマについては見る必要がない。

自分が見たドラマについては、他の人の感想を知りたいと思っているのではないか。自分がおもしろかったら、他の人もおもしろいと言ってくれていたらいい。違う見方、より深い見方を話してくれたらおもしろい。つまらないドラマをつまらないと言ってもらっても、見方が一致したことが少しうれしい。しかし、おもしろいと思ったドラマをつまらないと言われることは、望んでいないのかもしれない。なんだかがっかりしてしまうかもしれない。
それなら、つまらないと話すドラマ評は必要ないのではないかと思われるが、まだ見ていない人が見るかどうかを判断するためには、つまらないものはそう言ってもらうことが必要だ。
しかし、人がつまらないと言っていても、自分にとってはおもしろいかもしれない。自分にとっておもしろいものを見逃さないためには、そして自分が見たドラマについてもおもしろいものをつまらないといわれないためには、ドラマ評を選ぶ必要がある。

(続く)
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by hyuri07 | 2006-10-29 08:40 | テレビ

あーしゅう。

(続き)
それならば、何のためにテレビドラマ評があるのか。

自分が見ていないドラマについて、おもしろいかどうかを知り、見るかどうかを判断するという理由で読む人もいるだろう。

(続く)
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by hyuri07 | 2006-10-28 08:37 | テレビ

じしょん。

自分がそう思ったのだから人がどう思おうといいではないか、という考え方もあるだろうが、そこまで自分の思ったことに自信が持てない。

ただ、自分の楽しみのためにドラマを見ているのだから、どう思おうと自分の勝手だろう、という考え方は否定できない。

(続く)
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by hyuri07 | 2006-10-27 14:38 | テレビ

more&もっと。

よく読むテレビドラマ評が決まっている。

次回もこのドラマをお楽しみに(黒田昭彦さん)
小泉すみれの ドラマチック女子学園♪♪♪((小泉すみれさん)
TV Bros.(雑誌)の「ここがヘンだよ第一回!/最終回!」

世にドラマについて書いたブログは数あれど、きちんと読んでいるのはこれくらいで、それだけ信頼しているということでもあるのですが、その中でも、おもしろいおもしろくないと、評が割れることがある。さてどっちなのだろう、と思う。

自分がドラマを見たときに、なんとなくはおもしろい/おもしろくないということを自分で判断しているし、何かを強く思ってしかもキーボードを打てる環境にあれば、このブログに書いている。

しかしそれをはっきり信じられないときもある。自分ではおもしろいと思っても、他の評でつっこまれていたりすると、確かにそうかも、と思うことがある。自分には見る目が足りなかったかも、と思う。最近では「14才の母」がそうで、私はいいと思ってブログに書いたけれど、他の評を読むうちに、確かにそういうところもある、と、いまいちな面が見えてきた。

(続く)
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by hyuri07 | 2006-10-26 00:30 | テレビ

理性と本能と科学と技術。(「14才の母」第三回)

「あの子は、世界でいちばんかわいい子よ」
「こんな、お父さんとお母さんに迷惑ばっかりかけてる子でも?」

(せりふの詳細はちょっと定かではありませんが)

そんなふうに言われてみたい、と思った。
いつかそんなふうに言ってみたい、と思った。
親はみなこのように思うのだろうか。
「みな」とか「このように」とかが言いすぎだとしたら、「ほとんどが」「これと似たように」?

だとしたら、
虐待をしてしまう親とそうでない親が違うのは、
思っていることの伝え方だけだ。
みんながみんな、伝え方がうまいわけではない。

悲しい結果になってしまう前に、うまく伝えられるよう、皆で手が差し伸べられたら。
児童相談所はとても忙しいらしい。責任をそこだけに押し付けることはできない気がする。
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by hyuri07 | 2006-10-25 23:30 | テレビ

そこからはなれて。

わかってもらえないのは、わかってもらえるように言わないからだ。
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by hyuri07 | 2006-10-24 13:32 | そのほか。

あの記憶。

最近「スプートニクの恋人」を読んだ父が、「村上春樹の比喩は独特だ、出てくるたびに止まってしまう、よくわからん」というようなことを言う。私は今まで気付かなかったことだった。改めて「スプートニクの恋人」を読み返して、確かに比喩はいろいろと出てくる、と思った。この作品には特に多いかもしれない。しかし止まるというほどのことはなく、むしろ「なるほど」と納得してしまうような、様子が伝わる比喩のような気がした。しかしその比喩を出してくるというのは、凡人にはできない技なのだろう。
私もうまい比喩が言えるようになりたい。だれかに感謝の言葉を述べるとき、好きな気持ちを伝えるとき、どれくらいそう思っているかということを伝える比喩があったら、自分の感謝や好きな気持ちがより伝わるような気がするのだ。
でも「チチカカ湖の三倍くらい深く感謝している」とか「世界中のボックスティッシュのふたを開けて一枚目を上に引っ張り上げるくらい好きだ」とか言われたら、世間の人はうれしいだろうか。引くのだろうか。まあ、私の考えるような比喩では、センスが村上春樹には遠く及ばないかもしれない。
では「クリスマスと夏休みと生まれたての仔犬がいっしょになったみたいに」優しい、と言われたら人はうれしいのだろうか。引くのだろうか。(引用は村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社文庫)による)
私ならうれしいのだけれど。
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by hyuri07 | 2006-10-22 22:33 | 文学

地理。

優しくしたいけれど優しくしていない、というのは世間で認められた方法論のような気がする。
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by hyuri07 | 2006-10-21 22:29 | そのほか。