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ソナタのこころ。

バンドをやっていたころ、バンド仲間との話の中で、「あいつはバンドを仲間作りのためにやっている」という話が出た。
音楽が好きだから、音楽がやりたいから、バンドをする、というのが正しい道だろうと思っていた。仲間作りがしたいなら、バンドでなくてもいい。そんな気持ちでバンドをするのは、音楽への愛が足りないのではないかと、なんとなく思っていた。

でも、それは仕方のないことなのかもしれない、ごく自然のことなのかもしれない、とも思うようになった。生涯学習の講座でも、学習者どうしのつながりをどう作るかということが課題となっているようだ。趣味の多くは、仲間作りと不可分に結びついているのかもしれない。周りの人がやるというので一緒に始めるような人も多いだろう。
たとえばボランティア活動やなんかも、仲間がいるから、仲間と会って一緒に何かできるから続けていられるという部分が大きい場合も多いのではないか。それを抜きにすると、なかなか続けていけないのかもしれない。

ただそれでも、音楽というのは、仲間を作るだけでなく、それと同時に芸術を追求できる。両方ができるものは、他にそうないのではないかと思う。どちらも手放せない私にとって、貴重な場だと思っている。
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by hyuri07 | 2007-09-30 00:29 | 音楽

こむろでいと。

心は、暴れ馬だ。
思い通りにしようと抑えつけても、うまくいかない。

自然になら、身の危険をおぼえるようないくらかの場面を除いて、
心を開けるのかもしれない。あけっぴろげに。
でもそれは自然の「気持ち」を私が勝手に規定できるからかもしれない。
動物や赤ちゃんを相手にするときもそうだ。

自分とは違う気持ちを持つ相手と、どうやってうまくやっていけば。
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by hyuri07 | 2007-09-28 01:15 | そのほか。

つつもうか。

すごくおもしろいと思ったけれど、ネットで検索しても出てこない。

不思議な話だったけれど、余計に不思議だ。
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by hyuri07 | 2007-09-27 00:59 | そのほか。

最近。

すごくいい子なのに、一緒にいるとき話が途切れがち。
年齢三歳差のせいではほとんどないだろうと思う。

「落ち着いて対応しろ」と言われて心がけていたら、
「判断を早くする訓練をしろ」と言われた。
ああー、どうしていいのか、わからん。
でもきっと両方を満たすやり方があるのだろうなあ。

アクティブであるということが、あちこちへ飛び出していくことだとしたら、
大切なものを大切にすることと、どうやって両立させたらいいのだろうか?
守ろうとするとどうしても、外には目が向けづらくなる。
これもきっと、よいやり方があるのだろうけれどなあ。

思いつめると辛いので、
ゆっくりのったり焦らず解決策を探ってみようかと。
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by hyuri07 | 2007-09-25 23:55 | 日常生活。

Mr.Children『深海』2。

2曲目「シーラカンス」が始まった途端に感じる安心感。
こういうトーンが好きなのだ。
3曲目「手紙」、4曲目と、そのトーンが続く。
しっかり聞くのもいいし、部屋に流しておくのもいい。

「マシンガンをぶっ放せ」「ゆりかごのある丘から」「虜」の流れが衝撃的だった。
最初の二曲には戦いというテーマが見える。
「マシンガン…」は闘っている。「優しい歌」「しるし」なんかの、包み込むような感じとは違うものがここにある。曲が闘ってくれているので、私は安心してのんのんとしていられる。
「ゆりかご…」は歌詞から曲が想像しづらかった曲(「Let's Get Truth」もそう)。歌詞と曲と両方で表現していることがわかる。サックスのソロも曲の雰囲気に合っていて気に入った。
そこから「虜」に入ると、世界のギャップにびっくりしてしまう。「虜」は、恋人同士の二人の世界だと感じた。二人が向き合った、濃密な世界。闘いや、戦いから帰ってきた「僕」から見える、背後に広がるような世界とは大きく違うような気がしたのだ。
それをぽんと並べられるところに、みすちるさんのすごさがあるような気がする。どちらの問題も深刻だからこそ、同じトーンで並べてあるのだろう。心の一方では世界と闘い、心の一方では恋に堕ちていく。人は、いくつもの面を、軽々と持ちあわせることができるのだろう。一つの面で人を判断できないというだけではない。一面で荷物を抱えていても、裏面に回ればもう一つくらい持つ力があるのかもしれない。

「名もなき詩」の歌詞をじっくりと読んだのは初めてだ。
難しい。昨日も書いたけれど、ここに答えまでは書いていない。
もう少し考えてみる。
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by hyuri07 | 2007-09-25 23:38 | 音楽

Mr.Children『深海』。

答えは、はっきりとは示されていない。

ずっと、もしかしたら10年越しくらいで、聞いてみたかったアルバム。
ゆずでも『トビラ』が好きなくらいなので、きっと私の好きなアルバムになるだろうと思っていた。

「知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で
 もがいているなら
 僕だってそうなんだ」(「名もなき詩」)
「僕」の言葉に、相手は自分が孤独でないことを感じるだろう。気が楽になったり、救われた気分になったりするのではないだろうか。
「僕」は、その苦悩を解決する具体的方法を述べているわけではない。「僕」の言葉で、すべてが解決するわけではない。それでも、その言葉で心が変わる。

「ふと自分に 迷うときは 風を集めて空に放つよ今」(「花―Memento-Mori―」)
ここでも、迷ったときの解決策が具体的に示されているわけではない。でも、なんだか心が救われそうな言葉だ。

人々の悩みに対して、こうすれば解決すると具体的方法を話すことも、解決に貢献するかもしれない。
だけど解決への貢献はそれだけではない。「僕だってそうなんだ」と共感を示してもらうこと。空を見上げること。そうやって心が変わったら、新しい方向へ進むことができるかもしれない。そういうことだって、悩みの解決には大切な要素なのだろう。
むしろそちらのほうが大切なときだってあるだろう。

たとえ具体的な解決策がよくわからなくても、
力になれることがある。

他にも、また書けたら。
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by hyuri07 | 2007-09-25 00:07 | 音楽

訳。(6)

自分が幸せなら、周りの人も喜んでくれるはず。
というような言葉をもらって、私は新鮮な驚きを感じた。今まで考えたことがなかった。「自分なんていらないのではないか」という疑問への、一つのはっきりした答えだった。
自分が幸せでいることが、ある人を喜ばせるのなら。自分は生きて、できるだけ幸せに近づけるような努力をしなければならない。
やはり、外側から人から支えられて、自分が生きていることを感じる。

そして私も、周りの人が幸せなら嬉しい。
鷲田氏の言葉では「自他はどこまでも相互補完的なものである」というのが近いだろうか。
お互いのうちに位置を占め合うというのは、思い込みであっても喜びだ。

そしてもう一つ、他者の中に位置を占めるというのは、相手のために何かしたからというだけではないのだろう。家族のように、そこにいるだけで位置を占めることもある。恋人のように、理由もわからずひかれて位置を占めることもある。
どのように位置を占めたとしても、自分を支えてもらえる、支え合う関係を作れる可能性がある。いろいろな関係を大切にするべきなのだろうと思う。
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by hyuri07 | 2007-09-24 01:58 | そのほか。

訳。(5)

『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一(講談社現代新書 1996)

この本は、私が「自分」を考える上で大いに影響を受けている本だ。
著者からも相当の影響を受けている。
昨日書いた「人がいるからこそ自分がわかる」というのもそうだ。

「…アイデンティティを手に入れるには、どうしても他者が存在しなければならないことがわかる。」(P.97)
「わたしが〈わたし〉でありうるためには、わたしは他者の世界のなかに一つの確かな場所を占めているのでなければならない。」(P.119)

どうしてそういう話になったかということをすっとばして、こういう言葉だけが私の中に印象深く残っていたことが、読み返してみてわかった。

もう一つ、影響を受けたであろう本が、『考えるシート』山田ズーニー(講談社 2005)。

「つまり、「自分」というものは、「多面体」のようなもので、自己紹介は、相手の関心ある問いに応じて、「自分のどの面を見せていくか」ということになります。」
「…いい面も悪い面も含めた、自分の全体像を、自分でつかんでおくことが肝心です。」(P.71)

就職活動をしているとき、その面接の準備をしているとき、「自分」についていろいろと考えていた気がします。そのころの記事。
のどにつまる。
こだい。
ここには『じぶん・・・』に出てくる「ありえたかもしれないじぶんを棄てること」との共通性が見られる。(施川氏と鷲田氏とが同じ問題に興味を持っていることもわかる。)
このことについて仕事を始めた自分がどう感じているか、項を改めて書いてみたい。


「…アイデンティティを手に入れるには、どうしても他者が存在しなければならないことがわかる。」(P.97)
「わたしが〈わたし〉でありうるためには、わたしは他者の世界のなかに一つの確かな場所を占めているのでなければならない。」(P.119)

その言葉を胸に、
「あるひとのために」何かができるようになりたい、
と思ったりしていたわけなのですが、

本当にそれだけでいいのか。
と思う瞬間に出会った。

「自分」が他者の中に位置を占められるように考えていると、「自分」の中に「自分」がいなくなるような、「自分」が空っぽになるような気がした。この感覚が、「自分なんていらないのではないか」という感覚につながっているような気がする。

本当に自分は他者の中にしかないのか?
外との関係の中にある自分だけでなく、自分の内にたまっている「自分」のようなものも、あるのではないだろうか?

たとえば、ひきこもっていてあまり他者との関係を結べていない人が、文章を書いたり絵を描いたりするかもしれない。そこに表わされているのはその人の「自分」ではないのだろうか。悶々と一人で考え込むことより人と話すことのほうが、悩みの解決には近いかもしれないが、だからといって一人で考えることが全く無駄なことだとは言えないだろう。そこには悶々と悩む「自分」があるのではないか。
鷲田氏は、「だれだって複数の人格性を持っているといえる」とし、「これが病理的になるのは、…それぞれのステージに他者が見あたらないときだ」と言っている。(P.89-91)でも、「複数の人格性」のすべてを、他者との関係の中で見せているとは限らないのではないか。
まだ人との関係の中に出していなくても、その人の持つものは、あるのではないかとも思う。
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by hyuri07 | 2007-09-24 01:05 | そのほか。

訳。(4)

以前書いた記事その2「〈自分〉。

人の役に立ちたくて生きているのだから、自分なんていらないのではないか。

この疑問はずっと私の中にあった。
今もときどき思い出す。

それでも、文学など芸術一般や哲学のようなことに対して、私は自分の感覚を信頼しているところがあると思う。未熟で、人の意見を聞く余地はたくさんあるだろうけれど、人の意見についてまた感覚を働かせようとしている。その感覚だけは失いたくないと思う。

ここでも、私は相反する性質を、併せ持っている。


思うことの一つは、人がいるからこそ自分がわかるのではないかということだ。

続きはまた。
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by hyuri07 | 2007-09-23 02:53 | そのほか。

訳。(2)

理想を追いかけるということは、自分に絶望するリスクを負うことでもあるのではないかと思う。
それでも、追いかけたときに見える景色を、わかる心持ちを、体感できたらなと思う。
言うのは簡単で、実際にするのは難しいだろうけれど。
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by hyuri07 | 2007-09-23 02:13 | そのほか。