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人のことを考えていない痛さ。

楽しく生きるということがわからない。
毎日楽しいというのがどういう感じなのかわからない。

いままでいろいろバイトをしたけれど、楽しかったと思ったことがない。
人の優しさに触れたりして、感動することはあった。楽しい一瞬もあったかもしれない。
でもやっぱり、振り返るとどのバイトも辛かった、と思えてしまう。
つらいことのなかの一瞬の楽しさを、私はすぐに忘れてしまう。

だから働き始めた友達なんかに、「仕事が楽しい」という言葉を聞いたりすると、
私の心は激しく揺さぶられる。
今まで私になかった価値観だ。

振り返ってみれば、私の周りに「楽しそうに仕事をしている人」を見つけたことがなかった。「楽しそうに生きている人」というのも、あまり見たことがなかった。いても、楽しそうかという目で見ていなかっただけかもしれないけれど。
父も母もそう。祖父母も、楽しそうとはあまり思えなかった。先生も。親戚も。そして他の大人とはそれほど関わらないで育った。(だから、自分の身の回りにいた人の職業というのはとても限られている。これは私の職業観に確実に影響を与えていると思う。)
平日には仕事に行く。土日でも仕事があれば仕事に行く。毎日三食を作り、子どもたちにお弁当を作り、洗濯や掃除をする。毎日風呂の掃除をして、家に壊れたところがあれば迅速に直す。
私の周りの人は皆真面目に生きていた。少なくとも、そういう風に私は思っていた。それが楽しそうだとは思ったことがなかった。

高校生のころはいつも楽しいことをめがけて突っ込んでいっていた気もする。高校生だからできたことだ。周りにたくさん迷惑をかけた。
でももう今の私は、自分のことは自分で責任を取らなければならない。あのころのようなことはできない。

二年前にも就職活動をしたけれど、これからつく仕事が楽しいだろうとは思っていなかった。
つらいことの連続だろうと思っていた。それが当たり前だと思っていた。
その覚悟をしようと思ってもやはりそこに進んでいくのは怖かった。

毎日が楽しいと思える生活なんて想像したことがなかった。少なくともこの二年。
楽しいことが好きだった気持ちはどこかへ消えてしまっていた。
楽しくなくたっていいと思っていた。

でも、本当は。心のトタン壁を剥がすと。
楽しかったらどんなにいいだろう。
仕事がどれだけ大変でも、毎日楽しかったらどんなにいいだろう。

毎日夜中まで働いても、休みの日なんてなくても、友達や家族や恋人にも会えなくても、楽しいっていえるのかな。私にとってそういう仕事があるのかな。
今のバイトで、夜中まで働いていると帰り道は辛い。
どれだけ働いても辛くないと、毎日楽しいと思える人だっているのかな。

楽しくなくてもいいなら、どんな仕事だっていいのだ。
というと言い過ぎだ。「人の役に立つ仕事をしたい」という思いはずっとあって、たぶんこれが私の今後を考える一つの基準になるのだろうと思う。
でもそれなら、人の役に立てばどんな仕事でもいい、ということになる。辛くても、人の役に立てるならやる。耐えたらいいのだ。
でもここに「毎日楽しいと思える」という基準を加えたら、範囲はぐっと狭まってしまう。
私が、やっていて、どんなに辛くとも叱られても板ばさみになっても慣れないことをしても家族や友達や恋人に会えなくとも、毎日楽しいと思えることって何だろう?

今、文学の研究はそれくらい楽しいのかもしれない。
過去、音楽もそれくらい楽しかったかもしれない。

さっき「FNS歌謡祭」を見ていて、ゆずのお二人が楽しそうだった。
好きなことを続けて仕事にして、それが楽しいというのはわかる気がする。文学や音楽を楽しいと思うことと共通するのだろう。

でも今までやったことのないことをやって楽しいかどうかというのは、やってみないとわからない部分もあるのではないかなあ。

じゃあやはり今後を考えていく上で、楽しいかどうかということは置いておいたらいいのかな。
楽しければもうけものというくらいに考えておいたほうがいいのかな。

そんなことを考えていたら「シューカツを楽しむ!」と大きく書かれた本が家に送られてきていた。
二年前に楽しいと思ったこと、あったかもしれないけれど覚えていない。グループワークなどで少し仲良くなったり話したりしても、それで終わり。それ以上の関係は作れなかった。楽しい一瞬もあったかもしれないけれど、振り返ると辛いことばかり残っている。バイトと同じ感じだ。

だいたい私はいいことをすぐ忘れてしまって悪いことばかり覚えているのかもしれない。それを改善できるわけでもないのに。

楽しいと思うのは余裕があるからだとどこかで考えているのだろうか。楽しいと思う暇もないくらい全力を出し尽くせと。毎日遅くまでかかって大変なことがたくさんあっても、好きだからこれが業のようなものだ、という感じなら、少しわかる気がする。そんな人にも会ったことがある。
なんにせよ自分が壊れるくらいまで追い込まれて、追い込んで、ぼろぼろの状態にならないと、自分のことが許せない、認められないのかもしれない。
でもそれができなくて、そういう自分に甘いところもある。どうせだめなのだと。だめな子だと。そして、たとえぼろぼろになるまでやったとしても、できないことはいろいろあるのだろうと。だからただ、やることだけが大事だと。

 楽しく生きていなくてもいいのかな。
 毎日真面目に、生きていってもいいのかな。

 楽しくなくても幸せではあるのだ。
 毎日ご飯が食べられるし、寒い日に暖を取る部屋があるし、大好きな家族や友達や恋人がいる。幸せなことだ。
 そういう幸せがあったらどんなにつらくてもぼろぼろになっても泣いても生きていけるのではないのかなあ。

 でもそうじゃないと考える人は必ずいるはずで。
 人と違う意見のままでいるのが怖い。自分の考えや主張を通すのが怖い。
 でもこの前の研究発表で、前に言われたことをできるだけ盛り込んでやろうとしたら、何がやりたいのかわからないと言われた。
 言われたことをそのままやるだけじゃいけないみたいだな、と思った。
 でも、自分の意見にはたくさん穴があるはずだし、自分が言うことよりは、人が言うことのほうが正しい気がする。

少し時間ができたからこんなにぐちゃぐちゃいろいろと考えているのだろうなあ。
本当は他にすべきことがあるのに。
耐え切れなくてお酒に手を伸ばしてしまった。今日は、とりあえず、ここまで。
by hyuri07 | 2005-12-08 01:39 | そのほか。


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