2006年 01月 07日 ( 1 )

スイミング。

『デッドエンドの思い出』の残りを読む。
なんだか一篇一篇が、壊れやすい宝物のように、とても大切に思えた。
いいなぁ、と思える。
以下、ねたばれあり。





「おかあさーん!」
昨日書いた、「心が苦しくても体に何の変調も表れないようなときのほうがつらい」ということがばちりと書かれていて、見透かされていたようで驚いた。いちばんはっきりと書かれていたのが次の部分。
「ふと、「虐待された子どもは、自分の体の痛みと心を切り離すことができる」と本に書いてあったのを思いだした。」
この作品で、主人公は「自分で自分がだるいことがわからなかったり、肝臓がまだ本調子ではないのだから仕方ないのに、ちょっとそのだるさに罪悪感をおぼえたりしている」。そしてそのことについて本に書いてあったことを思い出し、「そういうのだろうか」と言っている。つまりここでは、体と心がばらばらになる原因を「虐待」にとっている。
 体が痛いけれど心が痛くないようにする、という状態が、虐待によって起こりうるというのは、何かの研究でわかったことなのだろう。じゃあそういう状態は、虐待という状況下でしか起こりえないのだろうか。私は、はっきりした傾向があるかはわからないが、虐待以外の状況でも、どこかで起こりそうな気はする。
 体が痛いけれど心は痛くないようにする、というのは、昨日書いた「心が苦しくても体に何の変調も表れないようなとき」と逆のしかたで、ばらばらになっているとも言えるだろう。じゃあ「心が痛いけれど体が痛くない」でも、先ほどと同様のことは言えるだろうか。この作品に従えば、虐待される子どもは自分の心を守ろうとするのだから、虐待のときにこちらのことは言えないのではないかと思う。こちらのことについてはもう少し自分で考えてみたい。

More
[PR]
by hyuri07 | 2006-01-07 22:24 | 文学