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カテゴリ:モード論( 14 )

ぴりっつ。

「没後100年記念 フランスの至宝 エミール・ガレ展」を見に行ってきた。
彼の作っているのは、花瓶や水差しなどの器がほとんどだ。
しかし実際に花をいけたら、花が目立たなくなってしまうのではないかと思うようなものもあった。
一緒に行った母は、「それは芸術になっているのだから、実際に使うときのことを考えてはいけない」というようなことを言った。
しかし私はなかなかそうは思えなかった。「モード論」の授業を通して、服は誰かが着て初めて服として成立するなあということを感じた。花瓶でも似たようなことが言えるのではないかと思った。
また、展覧会の最後のほうで、彼の晩年の作品である、「手」というタイトルの彫刻が展示されていた。花瓶でも水差しでもなかった。晩年になって彫刻という手段を選ぶところに、何か意味があるのだろうとも思った。
しかし母を説得できるだけの考えは浮かばず、花瓶と服ではやはり違う部分も多いのだろうか、ということを一応の解決策として、その場では気持ちを切り替えた。
それでもまだ、もやもやは少しは残っている。

ただ、どっちにしろ、展覧会自体は、よかった。きれいだったし、それだけではないものも垣間見えた気がした。特に、陶器や、後期の作品が気に入った。それらが、花が生けられたり水を入れられてテーブルに置かれたりしているところを想像すると、ほかになくて斬新だけれど確かにかっこいいと思えるものがいくつもあった。その斬新さはなんだか天才というより仕方なかった。
by hyuri07 | 2005-05-22 23:54 | モード論

「世界の終わりという名の雑貨店」

「好きな服を着てると、勇気みたいのが出るんです。
それを着ているときだけ、本当の自分に戻れるような気がして。」

この言葉の特異性、独自性にひきつけられて、私はこの映画がずっと気になっていた。

画面とか映像とか構成とかは「めちゃくちゃいい」というところまではいかなくて、未完成なところが残っている。それでも、いいところが印象に残る映画だった。
静かな場面が続く。思い切って音楽をなくしている。音楽が流れるのは、主人公胡摩の感情が大きく揺れる場面、だと思った。
制服から着替えた瞬間はやはり、衝撃的に映った。本当に、彼女は生き生きとし始めた。皆と同じ服から、自分だけの服へ。
でも服のことはこの映画の一部だった。もっと大きいものがこの映画にはあった。

高校時代。
こんなに繊細な時代でもあるのか、と思った。
私はずいぶん図太く過ごしてしまった、と思った。授業をさぼったこともない。そこには何か、風邪が吹きぬけるようなものがあったような気がする。そのことにも出会わなかった。
私は十代を過ぎてしまった。でも、十代とは違うおもしろさに、今は出会えると思う。
16歳には、できないことがある。その悲しさも、この映画の空気の中に含まれていて。
by hyuri07 | 2005-04-27 02:32 | モード論

選択の洗濯。

「モード論」の授業で、「落ち込んだときには明るい色の服を着る」という話が、何回かされていた。
しかし私の場合、落ち込んだときに明るい色の服はあまり着ないなあ。
なんだか自分が服から浮いているようで、居心地が悪い感じがする。
どちらかといえば、地味な色のものを着て、人の注目を浴びないように、人の波にもぐろうとする場合のほうが多いと思う。そうして、心を落ち着けたいと思ってしまう。
でも明るい色の服を着て、自分を服に合わせて明るい気持ちにさせたほうがいいのだろうか。そうやって、浮かないようにすればいいのだろうか。
落ち込んでいるときにあんまり人の視線を浴びるのは、つらいです。
でもそんな考えはだめなんだろうか?
by hyuri07 | 2005-01-30 02:33 | モード論

イメージ。

今日は「モード論」のレポートを出してきました。
このブログに書いたことも交えてなんとか書き上げました。

今日は知り合いに会わないだろうと思って手抜きの服で出かけたら
会った。
一緒にお昼を食べたけれどそんな手抜きの服に身を包む自分が恥ずかしかった。
一緒にいる相手にも申し訳なかった。

世の中の人は普段着る服を選ぶのにどれくらいの時間をかけているのでしょう。
私は悩むときは本気で30分くらい悩んでしまう。
授業に遅刻したこともあった。
気にし始めたら、自分の姿が恥ずかしくて、外に出られなくなってしまうのだ。
逆に、気にしない日は気にしない。特に時間のないときはそうだ。
今朝もそうで、鏡で顔は見たけれど、全身は見なかった。
そういうときは、見るからに気合の入っていない服になってしまう。

世の中の人は前日の夜から翌日着る服を用意しておくものなのでしょうか?
きめの日とか、デートの日じゃなくて、普段、です。
私の場合、前日の夜に翌日の服を考え始めると、時間に余裕があるせいか、
いつまでたっても決まらないことが多い。
疲れてあきらめて、
朝、せっぱつまったら決断できるかもしれない、と勝手に考えて寝てしまう。
そして、朝、時間がなくなって、適当な服を着ていく。見るからに適当な服。

そんなにたくさんの服を持っているわけでもないのに。
どうして?
世の中の人は、時間がなくても、きちんと見える服が選べるのかなあ。
どうやって?

それはやっぱり私が私のことをわかっていないからなのかなあ?
だから、どうしたらきちんと見えるか、わかっていないのかなあ?
ひいては、そういう外見の身体に含まれる、自分、自分の能力や志向についても、わかっていないのかなあ?

この最後の部分は今日出したレポートにも書いたことです。
by hyuri07 | 2005-01-29 02:12 | モード論

長さ。

今日は最後の「モード論」の授業だった。
今までのことをまとめる、というような感じではなかった。
教授の中でこの問題が解決しきれたものでないのだから、まとめるなんてできないのかもね。
代わりに、「なぜ、モード論なのか」というような話をしてくださった。
今日思ったことの一つは、「まちとむら」ということ。
世界は村がないとやっていけないと思う。だって農業がないと食べるものがないから。
人口が都市に集中したら世の中成り立たないと思うんですけどねえ。
確かに、都市には人がたくさんいる。それでおもしろいこともたくさんあると思う。
先月18日にも書いたんだけれど・・・なんだか釈然としない。

村とか農業とかについてけっこう考えているなぁと思うのは糸井重里さん。
社員旅行が農業体験だったり、野菜作りのテレビ番組をやったり。

でも驚くことに、お二人ともに、「吐く」ということに注目して書いていらっしゃる文章がある。
内臓的な感覚を指摘していらっしゃるところなんかも共通していて、本当に驚いた。

今はネットがあって、村からも最先端の情報に触れることはできるのだろうけれど。
もっとむらの文化について考えてみたいなぁ。

でも、先生がモード論を始めたころの話なんかを聞いて、
なんだかちょっとじーんとしました。
今までありがとうございました。

また、何か書けたら。
by hyuri07 | 2005-01-08 00:50 | モード論

泥と家。

就職セミナーは、哲学的だった。

ある雑誌の編集長さんや副編集長さんのお話が聞けるセミナーに行った。
最初に副編集長さんがくり返しおっしゃっていたのが、「時代の気分」という言葉。
それを聞いて「モード論」の授業を思い出した。
でもお話を聞いていると、その「気分」というのは、「流行」とも違うもののような感じがした。
どちらかというと、「反モードがモードになる」という感じ。
流行にとびつくのではない(反モード)のがかっこいい、というような価値観を提示しているような気がした。そして読者もそれに賛同して、一つの流れが生まれる(モードになる)。
もちろん、そのようなことはわかっていらっしゃるのだろう。情報は「水位差」だとおっしゃっていた。そしてこの仕事をするなら、そのことにタフでいなければならないと。

もう一つは、「まち」ということ。
この雑誌は「まち」を扱う雑誌だとおっしゃっていた。
しかし私は、そこまで「まち」に興味を持てないかもしれない、と思った。
田舎で育った。「まち」というのは、日本のほんの一部なのではないかと感じてしまう。
村があって、森があって、田んぼや畑がないと、人は生きていけない。
輸入すればいいやなんて思うのでしょうか?
今私は、わりと都会に近いところに住んでいるので、こういうセミナーにも思い立って行ったりすることができますが、
田舎にいたら、気軽には来られないです。
バンドをしたいと考える人も少ないし、遠くまで行かなければ集まれない。
食べるところも数が限られているから、「ここはいまいち」とか言っていられない。
そういうところで育つ文化のほうに、より興味をひかれるのかもしれません。

この雑誌が、どれだけこだわりを持って作られていても、
他の雑誌を読みたいと思う人の気持ちも、わかるのだ。
なんだか、この雑誌の価値観を押し付けられるような気分になってしまうのだ。
何がかっこいいか、ということを。
他の雑誌には、おいしくない店も載っているかもしれないけれど、
その中から自分にとって満足できるお店を探せばいいのだ。
探す楽しみ。
たぶんそういう人々は、雑誌に「おいしい店」を求めているわけではないのだろう。
私にしてもそうだ。
雰囲気はどうか(怪しい店じゃないか、入りやすそうか)、値段はどうか(予算に合うか)。
舌は肥えていないから、味については妥協できてしまったりするのだ。

でもきっとこの考え方は、育ってきた環境やなんかに大きく影響されているのだろうなぁ。
by hyuri07 | 2004-12-19 00:52 | モード論

きめらんねぇ。

 「モード論」の、学期末レポートの課題は、「コムデギャルソン論」だった。
 授業でコレクションのビデオを見ているけれど、足りない人は、冬休みにフィールドワークで百貨店の店に行って見てこいと。
 おもしろそうではあるけど・・・店員さんに相手にされなさそう。(泣)

 今日の授業は、ファッションとファッション写真・パフォーマンスアート、クラフトとしてのファッション、衣服のホスピタリティについて。
 前におそろしく手抜きの服で授業に出ていた話を書いた。今日のホスピタリティの話からそのことを考えた。たぶん私は、この授業で会う相手にはこれくらいのホスピタリティで大丈夫だと考えてしまっていたのだろう。教授をはじめ、教室で会う人たちをもてなす心があったら、もう少しきちんとした身なりをしていっただろう。
 確かに、そのときのような格好で、バンドの練習に行ったり、友達と遊んだりしない。そういう予定があるときは、寝坊しない。教授は私の身なりから、この授業を私が一等大切にしているわけではない、そんなにまじめに聞いているわけではないと読んだのだろう。申し訳ない気持ちになる。そして、服がゆるいせいか、気持ちもゆるいところがあった。緊張感はあまりなく、楽に興味深く聞いていた。そこにはいい面も悪い面もあったと思う。
 年明けの最終授業はちゃんとした服装でいけるだろうか・・・?いや、卒論の提出日だ(午前が締め切りで午後から授業)、無理かもしれない・・・。ごめんなさい。
 
ぱっと見で判断される場合ってやっぱり多いなぁ。怖いな。
by hyuri07 | 2004-12-11 01:32 | モード論

ぜよ。

今日も、「モード論」。
今日は、三宅一生さんと川久保玲さんのお仕事についてだった。
お二人の作る服からは、身体をどう考えるかということが見てとれる、ということ。
そこから身体の話になったのだけれど、そのとき、身体が意識していないのは、それがうまく働いていないときだ、という話になった。
だから文学でも、身体の感覚が描かれるのは、病気、倒錯の場合だと。
・・・?
比較文学の授業で、もう三年も身体と文学をテーマにした話を聞いていたから、私にも、他の例が上げられる。
「うまく働いていないとき」というのは共通するけれど、たとえば、老いを感じたとき、切除されたとき、または切除したように、一部だけを見るとき。
それから、自分とは違う身体を見たとき(人種の問題とか)、あとsexalityを感じたとき、とか。このあたりは、うまく働いていないときとは違う。
もちろん、先生は意図的に例を選んだのかもしれないけれど。
「モード論」も、比較文学の授業も、おもしろくて、似たテーマを扱っているのに、教授同士がその乗り合いについて話すことは、なかなかない。自分で考えるしかないけれど、やっぱりプロの考えには及ばない気がする。一部では、ジャンルを超えた試みが始まっているけれど、ぜひぜひ、もっともっと広がってほしいなぁ。
でも、私のしている体験の組み合わせは私しかしていないのだし、最後には、自分でテーマを組み合わせて考えるしかないのだろうなとは、思う。
きっとそれは、楽しいことのはず。
by hyuri07 | 2004-11-27 00:46 | モード論

成り立たせたい。

今日も、「モード論」から、いってみる。
前々回の授業で、流行(モード)についての話があった。自動車、音楽、思想など、モードの波をかぶらないものはほとんどないと。
そこでふと、音楽の流行ってなんだろう、と思った。

あちこちで、ヒットチャートが発表される。でも、音楽の流行って、それとはちょっと違う気がする。
流行の影響を受けやすいのは、アイドルの歌う曲なのではないかと思う。少し前に、ジャニーズ事務所所属のグループの嵐が、スケボーキングの人が作った「a day in our life」という曲を出した。初めて聞いたとき、あ、嵐がヒップホップ系の曲も歌うんや、と驚いた記憶がある。ヒップホップがかっこいい、という前提がないと、アイドルにそれを歌わせることはないのではないかと思う。そしてその前提を作るのが、音楽の流行なのではないかと思う。

また続きを、書けるときに。
by hyuri07 | 2004-11-22 02:07 | モード論

跳んでけ。

 今月一日にバンドのボーカルの方の服のことを考えていたけれど、「モード論」の授業をうけて、授業とつながるところがありそうな気がしてきた。
 一つは、衣服の社会性の問題。バンドの人々は、カジュアルな服を着ることで、バンドマンになる、ということかなあ。私自身、バンドの練習やライブのとき、きれいめの服は意識して避けるようになった。スカートもはかなかった。それは、バンドマンになるという覚悟の表れだったのかもしれない。バンドマンになれば、もっといいライブを目指して、練習ほかいろいろなものが求められる。普段の服装でその輪の中に入っていたら、私は無意識のうちに学生気分を引きずり、求められるものを出すよう努力することを怠るようになっていたかもしれない。
 しかし、もともとなぜきれいめの服を避けようと思ったかといえば、輪の中に溶け込みたい、浮きたくないと思ったからだ。それは授業で扱われた、衣服が輪の中へ入るパス、というような話とつながると思う。バンドの皆になじむ、同じレベルで、音楽の話もばか話もするためには、同じような服装をしていたほうがいい、と私は考えたのではないか。けっこう多くの人が似たように考えることがあるのではないかと思う。
 授業では、「同じような服を着る中で、わずかな差異に自分をかける」という話もあった。それも確かにうなずける。ただ、バンドマンの場合、音楽で自分の個性は十分に出せる。そういう安心感があるから、服が多少似通っていても、そこまで気にしなくてもすむのかもしれない。服に、そこまで自分をかけなくてもいいのかもしれない。
by hyuri07 | 2004-11-21 01:15 | モード論