<   2007年 08月 ( 23 )   > この月の画像一覧

友達論8。

こちらは何かが通い合った気がしてもっと仲良くなりたいと思っても、相手のほうはそう感じていないかもしれない。一方的な気持ちなのではという不安があると、それ以上の声をかけにくい。相手も自分と同じ気持ちだとはっきり確信できるようなときは、かなり仲良くなれるのではないかと思う。その通い合ったと感じる瞬間は、
初対面のときに訪れるとは限らない。むしろ、しばらくつきあって、相手のことが徐々にわかってくる中で訪れることのほうが多いのではないかと思う。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-19 22:10 | 友達論

友達論7。

どこかで読んだ。子どものころの友達は、家が近いなどの理由で仲良くなる。大きくなってからの友達は、気の合うものどうしが集まると。これは単に子どもの友達づくりが単純だとかいう理由ばかりではないだろう。高校生のころ、よく一緒に映画を見に行った友達がいる。彼女とは今でも映画の趣味が合う。それはあのころ同じ映
画を見ることで、映画への似たような価値観を作ってきたからなのではないかと思う。子どもは考えが柔軟で、確固たる価値観を持っているというわけではない。近所の子と遊ぶ中で、その子と似た価値観を築いていけるのではないか。だから、近所の子と仲良くなれる。大きくなって、譲れない価値観を持つようになると、その価値
観が違う人とは、なかなか仲良くなれないのではないか。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-18 18:04 | 友達論

友達論6。

「あたしたちだって(中略)親友はひいきしたりするじゃん」(『水色時代』3巻やぶうち優 小学館)友達という思想はときに、平等という思想とぶつかってしまう。それは許されることなのか。知り合いより友達を大切にしたいと思っても、実際にそれをすることは、倫理的に許されることなのか。仲間外れはいけないはず。みなと
なかよく。でも、みな同じように仲良くしていて、より深い友達関係を築くことができるのだろうか。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-18 17:48 | 友達論

私の四日間/お盆。

 寂しい、という感情は、ないものねだりなのか。

 行事を欠かさない家庭だった。誕生日のケーキはもちろん、クリスマス、七夕の笹飾り、節分の豆まきも。盆と正月には親戚が集まった。まず父方、そして母方。父は三人兄弟、母も三人姉妹だったので、集まると15人ほどになった。同年代のいとこも多く、いちばん年上だった私はいとこをひきつれて遊んでいた。
 年を経るごとに、泊りがけだったのが日帰りになり、用事で集まれない親戚も出てきた。仕方がないのだが、高校や大学くらいの私は、それをさみしく、また物足りなく感じていた。自分が顔を出せないのも嫌で、できる限りその日に合わせて里帰りをするようにしていた。
 今年、お盆に合わせて、研修が四日間休みになった。休みの前日、家には父方の親戚が、全員ではないが集まっていた。宴会となり、酔って寝た。
 翌日は母方の祖父母の家へ行った。顔を出して墓参りをすると、ほとんど一日がかりとなった。
 その翌日から仕事に行った。三日間の予定だ。初日、仕事を早めに切り上げて友達と買い物に行った。お盆で仕事もそれほど忙しくないだろうと予想して友達と約束をしておいたのだ。夜10時になってもショッピングモールから人が引かず、人々がお盆を楽しんでいることを知った。
 寂しさが訪れたのはその翌日の夕方だ。仕事はすぐには終わらず七時くらいになった。帰り、仕事の現場をたまには見ておこうと、自転車で遠回りして帰った。途中、信号待ちをしていると、お母さんと子ども二人が向こうから歩いてきた。
「あれっ、信号赤やん。知らんと渡ってまった」
「おれしっとった」
「なんで教えてくれんの~」
 お母さんは笑っていた。胸がきゅっとなった。三人は楽しそうだった。
 お盆に仕事をしているという現実に気がついた。家庭でのお盆の行事はすでに終わっている。研修のない三日間、休みもいらないやと思っていた。それなのに、つみ重ねてきたお盆の日常が、自分をせつなくさせてしまう。なぜ私はお盆なのに、家族のそばにいないのだろう。現場を見るのももどかしく、急いで家に帰った。
 家には家族が皆いた。父と妹はリビングで一緒にテレビを見ていた。いつもは自分の部屋にひっこんで見る妹も今日はそこにいる。彼女も今日がお盆だということをどこかしら感じているのだろう。私もご飯を食べてしまって早く混ざりたい、と思っていたら、晩御飯の食器を片付けないでおいたために母に叱られた。顔を合わせるとうるさいと感じてしまうのに、なぜかさっきはあんなに家族に会いたかった。
 食器を洗ってリビングに合流した。まだ高校野球が続いていた。逆転できるかと思いきや、負けているほうのピッチャーが打たれてしまい、逆転の望みはかなり薄くなってしまった。それでも最後は負けているほうが一点を返して、試合は終わった。試合の後、何を見るかで揉めそうになったが、なんとなく皆が妥協して「ロンドンハーツ」を見た。
 そうやって身を寄せ合ってはみたものの、寂しさは完全には拭い去ることができなかった。
 その翌日は送り盆だった。仕事で叱られ、私事での悩みごともあり、それらが寂しさと一緒になって、自転車で夜道を帰りながらほとんど泣きそうだった。早くは帰れなかったが、前日と同じように、三人でテレビを見た。一緒に見ていても寂しいのだが、それでも気休めのように、何かが変わるのではと期待して、身を寄せ合っていたかった。
 
 ここにないものがあってほしい。寂しさはそんな感情なのではないか。他のものはちゃんとあって、緊急の問題も抱えていない。そんなときにふいに、寂しさは襲ってくる。とりあえずのものは揃っているのに、ぜいたくな感情だとも言える。お盆に仕事があるだけ、短い時間でも家族に会えるだけ、私は恵まれているはずなのだ。
そして真の寂しさというのは、以前それがあった記憶があるからこそ襲ってくるものなのではないかと思う。それまではあったものが、今はない。だからこそ、あってほしいと切に切に願うのではないだろうか。
 でも裏を返せば、真の寂しさを感じられるということは、それがあったときの幸せな記憶をどこかに持っているということだ。そんな幸せな記憶こそが宝なのではないか。そんな幸せな記憶を持っていることが幸せ、と考えることはできないか。子どものころの、にぎやかで楽しいお盆の記憶を持っているというのは、まぎれもなく幸せなことなのだろう。
 それでも、そう考えたとしたって、寂しさは減らない。
 私たちにできるのはただ、寂しさをぶつけられる手段をいくつか持っておくことくらいなのではないか。恋人にだだをこねるとか、酒を飲むとか、泣くとか、バットを振り回すとか。もちろんたとえばテニスのように、もっと健全なことでもよいのだろうけれど。人に迷惑をかけなくて、気持ちがなんとかなればいい。
 そう考えると、人々はお盆を「魂が帰ってくる日」と信じて、あれやこれやすることに、いてほしい人がいない寂しさをぶつけているのかもしれない。お盆というのは、ずっと昔から続く、寂しさをぶつけることのできる洗練された手段なのだろう。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-17 07:49 | そのほか。

笑いはクリエイト(1)。

 「クリエイト」とは創るということである。笑いを創るということはどういうことかと考えてみると、笑いを二種類に分けられることに気づく。
 一つは意図的笑いである。これは人を笑わそうとして言動を創り出すものである。
 もう一つは偶発的・無意図的笑いである。これは、笑わせることが目的でない言動が、結果的に笑いとなるものである。
 「クリエイト」する笑いは主に前者にあたると考えられるが、後者に当てはまらないということはないと考える。積極的な言動から偶発的・無為と敵笑いを探そうとする試みも、クリエイティブだと言えるのではないか。また、いわゆる「つっこみ」も、ぼけをうけとめて人の笑いに変えるという点で、クリエイティブな行為だと言える。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-16 00:36 | そのほか。

妙なもの。

頭の固い人が、おじさんであり、おばさん。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-15 07:28 | そのほか。

友情論5。

男女の友情は成立すると思う。
自分に、友達だと思える男子がいるから、としか説明がつかないが。

男の子の友達を思い浮かべて、恋人に変わりうるか?と想像を始めた途端、ありえない!という結論が出る。
たとえばその人のある部分の価値観に共感できないような場合、恋人にはなりえない、と思う。
しかしその部分の価値観に食い違いがあっても、その子のことは好きだ。いいところがいろいろある。だから、友達だと思う。さらに、何か通じるものを感じたら、仲の良い友達となれる。
どちらかといえば、友達から恋人となる、というほうが、私の中に薄い感覚だ。恋をするような人への気持ちは、ほとんど最初から他の人への気持ちとは違っている。一目ぼれというのではなくて(そうである場合もあるのかもしれないがそれはまた次の機会に)、これからこの人を知っていったら恋に落ちてしまうのではないか、という予感のような緊張が、どこかにずっとついているのだ。それがなかったら、まず恋愛対象とはならない。

男の子の友達と接しているとき、相手が男だということを忘れているわけではない。男の人は、女性にはない視点でものごとを見ていることも多く、自分とは違う意見が聞けて視野が広がる。男だからというわけではないかもしれないが、その違いというのはどうも性差から作られるような気がする。
ただしそのとき、相手が異性であり、恋愛対象ともなりうる存在だということは、完全に頭から抜けている。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-12 23:39 | そのほか。

友達論4。

友達と知り合いの間には区別をつけてもいいかな。

友達と知り合いと、できればどちらにも幸せでいてほしいけれど、
そうできるよう、できるだけのことをするけれど、
どちらかしか幸せにできないなら、友達を幸せにしたいな。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-12 01:38 | 友達論

友達論3。

年下のかたを友達だと思うとき、
相手を尊敬する部分があるのではないかと思う。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-09 07:35 | 友達論

友達論2。

人と仲良くなるのに時間がかかるほうだ。

・相手は何が好きなのか?
・相手は何が嫌いなのか?
・相手が触れられたくない部分はどこか?
・相手は私をどう思っているのだろう?好きなのか?苦手なのか?あまり好きではないのか?
・相手は私がどうすると嫌がるのか?
・相手は私がどうすると嬉しがるのか?

初めて会った人と、探りながら顔を合わせている。
客観的に見たとき、自分のうちでもきちんとしているように見える振る舞いをするよう心がける。
あっという間に嫌われてしまうのが怖くて、口数少なくなることも多い。

今まで、私は相手にA,B,Cという面を見せてきた。それにもかかわらず、今のところ相手は自分のことが嫌いではないようだ。今後もA,B,Cの面は見せても構わないだろう。しかしDという面を見せると、途端に嫌いになるかもしれない。嫌われているのか特に問題がないのか、実際にDという面を見せてみなくてはわからない部分がある。

私ならそんなとき、Dという面を見せるのが怖い。
臆病者で、嫌われるのが怖いのだ。
[PR]
by hyuri07 | 2007-08-04 00:45 | 友達論